ハムレットのシンメトリー

Hamlet's Questions and One Man's Answers

48. ハムレットのサターンリターン

 なかなか前回の続きが書けないでいるので今週のお題でまた書いてみる事にしました。今週のお題「人生最大のピンチ」。これなら『ハムレット』ネタで書ける、そう思った次第です。なぜなら登場人物のほとんどがこの戯曲中に舞台の上で、あるいは舞台の外で死んでいるのですから。それも皆が殺されるか、そうでなかったら狂って自殺というのだから、人生最大のピンチを経験して残念ながら生きて乗り越えられなかったわけです。

 さらにデンマークという国家として見ても、相次いで国王が亡くなり、その息子であるハムレットも亡くなったうえ、一代前では敵対していたノルウェーのフォーティンブラスが国王となるのですから、これもまた国家最大のピンチです。まあ多分その後はフォーティンブラスがピンチを乗り越えて納めてくれたのでしょう。そうでなかったら救いようのない話ですから。

 このように皆が人生最大のピンチなのですが、ハムレットに関して言えばそのピンチは占星術的にも裏付けられたものでした。そんな星占いと英文学、戯曲に何の関係があると言うのかとこのブログを始めて読まれた方は思うかもしれません。しかし、ルネサンス以前では文学に限らずその他の芸術、さらには化学をはじめとする科学の分野でも、占星術はとても大きな役割を担っていたのです。

 そのハムレットの人生最大のピンチの占星術的背景はすでに前の記事40.土星の子供としてのハムレット - ハムレットのシンメトリーでふれたのですが、これは長いので繰り返しになりますがもう一度簡単に見てみましょう。

 ハムレットはその年齢が30歳であるらしい事が第五幕第一場に登場する墓掘りの台詞からわかります。なぜハムレット30歳という年齢が設定されているのか?それは30歳が『ハムレット』の主題ともいえる憂鬱質と関係が深い惑星である土星の公転周期の29.46年とほぼ一致するからです。もう少しかみ砕いて表現すると、30歳の時、土星黄道上を一回りしてその人が生まれた時の位置に戻ってくるのです。これを占星術ではトランジット土星がネイタル土星とコンジャクションを形成すると言い、これ自体がサターンリターンと呼ばれて重視されているのです。このサターンリターン、西洋の厄年とまで言われているようです。

 つまり、ハムレットは厄年だったわけです。厄年だったのだから「人生最大のピンチ」が訪れても不思議はありません。でも占いが当たるのだったら不思議かもしれません。

サトゥルヌスと彼の子供たち 15世紀中葉

 さてこの西洋厄年サターンリターンにはどのような意味があるのでしょう。私は占星術にそれほど詳しいわけではないので、サターンリターンで検索してみました。そうしましたら『サターンリターン』っていうマンガがあるんですね。いずれ読んでみたいですが、それは今は置いておいて、占星術関係の記事を読みますと、サターンリターンの意味としては、これまで避けていた事に向き合わざるを得なくなり、価値観の転換を迫られるとか、それがその人の人生における試練となるというようなことが書かれていました。

 確かにハムレットにとって父ハムレットの死によって価値観の転換を迫られたのでしょうし、試練であったのでしょう。でも少し漠然としていたので、次はtransit saturn natal saturn で検索しました。専門用語で海外のサイトを狙ったわけです。すると以下のサイトに次のような記事を見つけました。これがまったく29歳を迎えたハムレットへのドンピシャなアドバイスとなっているのです。笑えるくらいに。翻訳文にハムレットの状況を見比べて注をつけましたので、あわせて読んでみてください。

www.thefutureminders.com

 

トランジット土星土星のコンジャクション

 

 これはあなたにとって非常に重要な年であり、個人の成長の 29 年間のサイクルの始まりを示しています。*1

 あなたは今、外の世界に対して自分のアイデンティティを確立させ、個人的な目標をより明確にし、自分の行動に対する完全な責任を受け入れるよう求められています。あなたは新たな成熟段階に入りつつあり、より真剣に目的意識をはっきりさせる事で対応するかもしれません。それはそれで良いのですが、過度に自己批判*2になったり、非現実的な期待を抱く傾向*3は避けなければなりません。

 これを祝福と見なすか呪いと見なすかにかかわらず、この期間中は、成功して最善を尽くさなければならないというプレッシャーを感じ、より多くの責任を負う可能性*4があります。

 あなたは自らの確信を試し、あなたの目標に疑問を投げかける新しいプロジェクト*5を開始するかもしれません。あるいはあなたがその期待に添わなければならないと感じている権威者の高い要求*6にプレッシャーを感じるかもしれません。いずれにせよあなたの安全とは言えない状況*7に立ち向かう事が、それらを克服する唯一の方法なのです。

 この期間にあなたが行うことはすべて、予想よりも時間がかかり、予想よりも難しいように思われるかもしれません。しかしその根底には、努力なしには何も得られないというメッセージがあるのです。努力は成功によって報われます。これを日々のマントラのように心に留めることです。

 

 当たってますよね?占星術って戯曲の中の人物にも有効なのですね。

*1:ハムレットは第五幕第一場の墓掘りとの対話で30歳であることが明らかとなっています。この場面は父ハムレットの死からすでに数か月が経過していますので、父の死がハムレットのこの29年のサイクルの始まりという事ができるでしょう。

*2:ハムレットは第二幕第二場での役者の演技を見た後の独白で自らを責めます。

ハムレット それだというのに、このおれは!

ああなんという鈍、泥のように鈍、白日の夢にふけって

ただふらふらとうろつき回り、おのれの一大事もどこ吹く風、

なにひとつ言おうとしない、国王のために、すべてを奪われ

尊い命までも無残に無きものにされた国王のために、

ああ、なにひとつ。おれは卑怯者だ、

おれを悪党と呼んでくれ、この頭をぶち割ってくれ、

髭をむしり取っておれの顔に吹きつけてくれ、

鼻をひん曲げてくれ、恥知らずの大噓つきと

心底から罵ってくれ、だれでもいいそれをする者はいないのか?

そうとも、

それで当然だとも、きっとおれは鳩のように臆病で、

怒りの感情に欠けているのだ、どこまで痛めつけられても

えへらえへら、怒りのひとかけらでも持ち合わせれば、そうとも、

とうのむかしにあの悪党の腐れ肉など、大空を舞う

鳶という鳶の餌代わり。ああ悪党、血まみれの好色漢、

冷酷無残な裏切者、色きちがいの、人でなしの、大悪党!

よし、復讐だ!

まったく大間抜けとはおれのこと、ごりっぱな話だよ、

殺された最愛の人の当の息子、

天国からも地獄からも復讐をせかされている復讐者、

そのおれが売春婦なみに、心の内を口先に広げてみせて、

果ては口ぎたなく毒づき始める、そうとも、売女のやり口だ、

下種野郎め!ああいやだ、いやだ!少しは考えてみろ、この頭。

 過度に自己批判的になっています。こういった傾向は避けなくてはいけません。

*3:第二幕第二場でローゼンクランツとギルデンスターンとの会話の中で

ハムレット ぼくはね、胡桃の殻の中に閉じ込められていても、無限の宇宙の支配者だと思っていられる人間だ。ただ悪い夢に苦しめられているものでね。

非現実的な期待を抱く傾向。これも避けなくてはいけません。

*4:亡霊と会った後、第一幕第五場での最後の台詞

ハムレット 時の関節が外れてしまった。ああなんという運命、

これの整復のために生まれ合わせた身の因果。

この台詞の他にもハムレットが亡霊の言葉からプレッシャーを感じているのは劇全体からもわかるでしょう。

*5:第三幕第二場でハムレットは亡霊が語ったことから導かれる自分の目的(父の復讐)に疑問を抱き、それを試すために劇中劇というプロジェクトを開始します。

*6:この権威者とはハムレットにとって父の亡霊で、高い要求とは「復讐せよ」です。

*7:国王を殺害するという企てはいうまでもなく安全とは言えない状況に陥ります。そしてハムレットはイギリスへ自らの死刑執行の依頼を携えて行かなくてはならないのです。このイギリスでの死刑を逃れてもクローディアスとレアティーズの企みに満ちた決闘が待っているのです。

47.アムレートからハムレット

 シェイクスピアは『ハムレット』をはじめとする多くの戯曲作品の他に詩も残しています。その中でも『ソネット集』はいくつか翻訳もされていて有名かと思います。このソネットというのは詩の形式で十四行詩と呼ばれるように14行で特定の押韻構成があります。この押韻構成について、ソネット集 - Wikipedia18番のソネットが例として挙げられていますのでそのまま貼り付けさせてもらいます。

 

Shall I compare thee to a summer’s day? - (a)
Thou art more lovely and more temperate. - (b)
Rough winds do shake the darling buds of May, - (a)
And summer’s lease hath all too short a date. - (b)

Sometime too hot the eye of heaven shines, - (c)
And often is his gold complexion dimm’d; - (d)
And every fair from fair some time declines, - (c)
By chance, or nature’s changing course, untrimm’d; - (d)
But thy eternal summer shall not fade, - (e)

Nor lose possession of that fair thou owest; - (f)
Nor shall Death brag thou wand’rest in his shade, - (e)
When in eternal lines to time thou grows’t: - (f)

So long as men can breathe or eyes can see, - (g)
So long lives this, and this gives life to thee. - (g)
— ソネット18

 1行目のday3行目のMayが、2行目のtemperate4行目のdateが脚韻を踏みます。この4行の押韻ababと表現すると、14行全体の押韻abab cdcde fef ggとなります。さらにそれぞれの詩行は弱強五歩格となっています。脚韻によって音が響きあい、韻律でリズムを刻みます。そのソネットの形の上に詩の内容があるのです。

 さて、なぜソネットの形式を説明したかといいますと、abab cdcd efef ggといった押韻構成が、なんだか『ハムレット』のABCDEF| fedcba構成に似ているようなところがあるからです。ソネットにおいては脚韻の響きが対応しあい、『ハムレット』のABCDEF| fedcba構成では劇中の出来事が対応しあうため、対応する要素はまったく種類が異なるのですが、もしかしたらシェイクスピアは多くのソネット作品を書いていく中で、一つの作品世界の中に対応し響きあう要素を形作る事に魅力を感じ、そのような形を戯曲作品に応用しようと考えたのではないのでしょうか?そしてそこに前回のブログ記事で記したように、印刷製本からのアイデアが加わりABCDEF| fedcba構成が形作られていったのではないかと思うのです。

 ソネットでは弱強五歩格とその十四行の中に定められたabab cdcd efef ggという押韻構成が骨組みとなり、そこに詩で歌われる題材が肉付けされて一つの作品が出来上がります。個々の作品よりも先にソネットの形式があるのです。それでは『ハムレット』もABCDEF| fedcba構成が骨組みになっているのかというと、そうではありません。なぜなら『ハムレット』の創作過程で先にこのABCDEF| fedcba構成のアイデアが骨組みとしてあったわけではなく、ストーリーの方が先行していたからです。
 シェイクスピアの多くの戯曲がそうであるように『ハムレット』もまったくの創作ではなく、題材となった作品を持っています。それは『原ハムレット』と呼ばれており、現在ではすでに失われているのですが、『ハムレット』の十年ほど前の1594年に上演されたと言う記録が残っています。この『原ハムレット』もシェイクスピア作であるという説さえあるのですが、いずれにせよ『原ハムレット』も『ハムレット』ももともとはスカンジナビアの伝承を基にしています。 そしてその伝承は十二世紀のサクソ・グラマティクス『デンマーク人の事績』の中のアムレートの物語として私たちにも読むことができます。*1

17世紀デンマークの写本に描かれたアムレート (ウィキペディアから)

 このスカンジナビアの伝承をもとに『ハムレット』が書かれたということは、このアムレートの物語、あるいはそれに由来する物語の方が作品の骨組みとして、肉付けられていったのはABCDEF| fedcba構成だったと考えられるのです。もとの題材であるアムレートの物語には、対称構成はなかったため、『ハムレット』にその対称構成を形作るためにはいくつかの点を新たに創作し取り入れる必要がありました。その結果、大まかなストーリーといくつかの出来事はもとのアムレートの物語と共通していながらも、他のいくつかの点では大きな変更がなされたのです。
 ニューケンブリッジシェイクスピア版『ハムレット』の序論*2によれば、このアムレートの物語と『ハムレット』を比較すると、以下の点が『ハムレット』において変更された点であるとされています。
(1)殺害が秘密となる。
(2)亡霊がハムレットにその謀殺を告げて復讐を促す。
(3)レアティーズと若きフォーティンブラスが取り入れられる。
(4)オフィーリアの役割が広がり大きくなる。
(5)旅役者とその芝居が取り入れられる。
(6)ハムレットは復讐を果たすと共に死ぬ。
 これらの六つの変更点をABCDEF| fedcba構成と照らし合わせて見ると、そのどれもがABCDEF| fedcba構成に欠くことはできない要素であることがわかります。つまりこれらの変更点は前半部と後半部の対称構成を形作る意図のもとに加えられたと考えられるのです。それぞれについて詳しく見ていきましょう。まずは以下にABCDEF| fedcba構成の簡単な表をあげます。

ABCDEF| fedcba構成
(1)殺害が秘密となる。
 アムレートの物語ではアムレートの叔父フェングによるアムレートの父ホルヴェンディルの殺害は隠されておらず、そこから復讐へとつながる物語全体の中の一つの出来事です。 それに対して『ハムレット』ではクローディアスによる殺害は秘密にされており、この事によってその殺害は舞台では表現されない過去の出来事となり、亡霊の語りによって初めて明かされる事となります。しかし亡霊という存在からのものであるためにそこには疑わしさが伴っているのです。
 ここには過去、亡霊、疑わしさ、語りによる表現といったNot to beの要素が殺害が秘密にされる事によって生まれていることが分かるでしょう。To be Not to beの対比的な関係はABCDEF| fedcba構成の最も大きな効果であり、殺害が秘密である事はこの構成に欠くことはできないのです。

 

(2)亡霊がハムレットにその謀殺を告げて復讐を促す。
(6)ハムレットは復讐を果たすと共に死ぬ。
 この二つの変更点はA「亡霊が胸壁上に現れる」とa ハムレットの亡骸が高檀に上げられる」の対称関係に関わっています。この変更点(2)と(6)は対称場面Aa の別の面という事が出来ます。A|aが対称関係であるように、この(2)と(6)の二つの変更点も(2)亡霊がこの世に現れて復讐を促す、(6)ハムレットが復讐を果たしてこの世から去る、というように表現を変えると対称関係になっている事が分かるでしょう。アムレートの物語では亡霊の出現はなく、アムレートは復讐の後にも生き続け物語りは続いていきます。

 

(3)レアティーズと若きフォーティンブラスとが新たに取り入れられる。
 これらはC|cの対称関係に必要な変更点です。アムレートの物語ではこれら二人に対応する人物は登場しません。

 

(4)オフィーリアの役割が広がり大きくなる。
 『ハムレット』ではオフィーリアがポローニアスによってハムレットの狂気のテストとして使われています。この元になった場面がアムレートの物語の中にもあり、やはりアムレートの心を探るために幼馴染の美女が遣わされます。しかしアムレートの物語ではこの女性の役割はこの場面のみです。オフィーリアの役割で大きくなった点はオフィーリアの狂乱とその死と葬式であるといっていいでしょう。つまりオフィーリアの役割が大きくなっているのはB|bD|dの対称関係が作られたためだと考えられます。

 

(5)旅役者とその芝居が取り入れられる。
 これは劇中劇の事ですが、劇中劇がハムレットのイギリスへの渡航E|eとして対称であることは先に見たとおりです。アムレートの物語でもイギリスへの渡航はそのストーリーの中にあり、やはりフェングのアムレート殺害計画の下に進められます。『ハムレット』ではこのイギリスへの渡航から「クローディアスによるハムレットのための計画(プログラム)」という命題が抽出され、それに対して「ハムレットによるクローディアスのための演目(プログラム)」という命題の下に劇中劇が構想され配置されたのではないでしょうか。
 このように見るとアムレートの物語と『ハムレット』との六つの大きな相違点はABCDEF| fedcba構成の対称関係を形作るために、生まれたのではないかと思われるのです。六つの変更点にはF|f は関係していないが、これもハムレットがポローニアスを殺害する場面の原型となるエピソードがアムレートの物語にはあります。そしてそれと対称関係になるようにハムレットによるクローディアス殺害の断念が新たに付け加えられたのです。
 また、時代設定が『ハムレット』ではシェイクスピアの同時代となっていることも『ハムレット』における変更点ですが、それによって『ハムレット』劇内のイギリスと現実のイギリスがリンクし、世界劇場の効果を高めるのです。
 以上のようにニューケンブリッジシェイクスピア版『ハムレット』の序論であげられている『ハムレット』における変更点は全てABCDEF| fedcba構成を形成している要素であるということができるのでしょう。これはシェイクスピアがアムレートの物語をベースにそのストーリーを骨組みとして、全く別の表現すべき内容をABCDEF| fedcba構成として肉付けて描き込んだからであると思われるのです。

*1:翻訳はあるのですが高額です。

デンマーク人の事績 | サクソ・グラマティクス, Saxo Grammaticus, 谷口 幸男 |本 | 通販 | Amazon

ウィキペディアのアムレートの項目であらすじを読むことができます。

ja.wikipedia.org

*2:Hamlet Prince of Denmark” Edited by Philip Edwards The New Cambridge Shakespeare Cambridge University Press

46.フォリオと『ハムレット』対称構成

 前回は『ハムレット』のテキストに色違いの付箋を貼ってみました。そのようにすることで『ハムレット』の対称構成が実際に目に見えるようになりました。このように対称構成が目に見えるようになると、シェイクスピアの創作が身近に感じられるとともに、より深くその秘密に分け入った気持ちになる事ができます。今回は、前回の作業を踏まえて『ハムレット』の創作に分け入ってみたいと思います。

 さて、これまでのブログ記事でも何度か話題にしたことがあるのですが、『ハムレット』のテキストには、F1Q2Q1といったものがあります。F1とはファースト・フォリオの略称で、これは第一二つ折り版(だいいちふたつおりばん)と訳されます。Q2の方はセカンド・クオートで、第二四つ折り版(だいによつおりばん)です。

ファースト・フォリオの『ハムレット』最初のページ

 

 この二つ折り、四つ折りという言葉は、その本を作る際の印刷全紙の折り方です。二つ折版は印刷全紙を1回折ってそれを重ねて製本したもの、四つ折版は2回折ったものを重ねて製本したものです。この二つ折版の印刷製本に関して、研究社シェイクスピア選集の巻末に詳しい解説が図とともに載っていますので引用します。

 

First Folioの組み版はページ順に行われたのではなかった。この Folioは‘folio insixes’という印刷製本で、印刷用全紙を3枚重ねて二つ折りにし6葉12ページで「帖」(quire)をつくる。この帖が製本の単位になる。First Folioではまずいちばん内側に当たる6,7ページ目が組まれた。つづいてその裏側の5,8ページ。つまり組み版の順序は6,7‐5,8/4,9‐3,10/2,11‐1,12ということになる。

*1

 

このようにフォリオでは、印刷はページの順に刷られるのではなく6,7が同じ面に、その裏に5,8が、4,9が同じ面に、3,10がその裏に印刷にされることになります。

 さて、私のブログをはじめから読んでくださっている人は、この図を見て何か気づかないでしょうか?それは『ハムレット』のABCDEF| fedcba構成*2

を思い起こさせることです。実際、私はこの研究社版の『ハムレット』を書店で立ち読みして、この図が目に飛び込んだ時「やられた、先に明かされていた」と思ってしまったのです。ABCDEF| fedcba構成を図解したものだと勘違いしたのです。

 しかし、それは違っていました。実際はフォリオの印刷製本の綴じ方だったのです。しかしこの図の数字をアルファベットに置き換えるとそのままABCDEF| fedcba構成の図解のようになるのです。

この事は何を意味するのでしょう?

 これはおそらく、シェイクスピアフォリオが印刷され製本されていく過程を眺めて、あるいはばらけてしまったフォリオによる書籍を見て、この『ハムレット』のABCDEF| fedcba構成を思いついたのではないかと思うのです。ABCDEF| fedcba構成の対応関係がほぼ6組であるのも、このフォリオの 「帖」が6葉12ページで組まれていたためなのでしょう。そして、おそらくは実際に組まれた3枚の白紙の「帖」を創作のメモとして構成を考えながら書き進んでいったのではないでしょうか?半分に折った3枚の全紙の一方にTo be を、もう一方にNot to beとして、それ以前にあったハムレットの題材をもとに創作していったのです。具体的な証拠となる物があるわけではないですが、私はシェイクスピアが『ハムレット』をこのように創作したのだと確信しています。

*1:大場建治訳、注解 シェイクスピア選集8 ハムレット 研究社 2004年  396ページ

*2:ABCDEF| fedcba構成はこのブログで論述している『ハムレット』の構成の新説。詳しくは

symmetricalhamlet.hatenablog.com

symmetricalhamlet.hatenablog.com

などを参照

45.『ハムレット』対称ペアに付箋を貼ってみよう

 今回のネタは、以前のはてなブログ今週のお題「買いそろえたもの」で使おうと思っていたネタです。このブログをより楽しみ、理解するために買いそろえるとよいものを紹介します。

 まずは『ハムレット』のテキスト、これはどこの出版社でもいいのですが、なるべく厚めのものが良いです。しかし世界文学全集のシェイクスピアのようないくつかの作品が合冊となっているものは適しません。あくまで『ハムレット』の本文で本の厚みのあるものです。このブログでも引用につかっている研究社版大場建治訳『ハムレット』は対訳で厚みがあり最適です。しかし文庫でももちろんかまいません。

 もう一つはカラフルな付箋、最低6色は必要です。これをそろえてください。そして、このブログを見ながら、『ハムレット』のABCDEF| fedcba構成のページに貼り付けていきます。対称ペアとなるページに同じ色の付箋を貼り付けます。

 

 まずは、第一幕第一場の亡霊登場の場面です。ホレイショーが登場して初めて亡霊を目にする場面です。貼る場所はページの上の部分です。

 次に『ハムレット』の最終ページに同じ色の付箋を貼ります。これはハムレットの亡骸が壇上に上げられるところです。壇上に上げられるのは閉幕後に設定されていますので、最終ページに付箋します。貼る場所は先に貼った亡霊登場の付箋と重なり合うように貼りましょう。

 これで胸壁上に登場する亡霊と、壇上に上げられるハムレットの亡骸が対称となっていることがわかりやすくなります。

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 次は第一幕第二場の始まりのところ、王と王妃の婚儀の場面です。

これと対称となる場面が、第五幕第一場のオフィーリアの葬儀の場面です。これも同様に付箋を貼ります。付箋の色を変えて、先に貼った付箋と少しずれるように貼ります。

この二つの場面では、婚礼と葬礼、さらに記憶と思いが対称的に描かれています。

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 次は第二幕第二場でフォーティンブラスの話題が出る箇所です。

これと対称となる第四幕第五場でクローディアスのもとにレアティーズが殴り込みに来る場面にもやはり付箋の色を変えて同様に貼っていきます。

 この二つの場面ではフォーティンブラスが粘液質として、レアティーズが胆汁質として対称的に描かれています。

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 番目の対称ペアは第二幕第二場のハムレットの手紙をポローニアスが読み上げてガートルードらに聞かせる部分と、

 

第四幕第五場でガートルードのもとにオフィーリアが連れてこられ面会する部分です。


オフィーリアはここで歌を歌います。書かれた詩と歌われた歌が対称となっている対称ペアです。

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 番目の対称ペアは第三幕第二場の劇中劇と、


ハムレットのイギリスへの渡航ですが、イギリスへの渡航は舞台上では表現されていませんので、イギリス行きをクローディアスに命じられた第四幕第三場の終わりに付箋を貼りましょう。

 この劇中劇とハムレットのイギリスへの渡航の対称関係は、閉幕後のホレイショーの語りとも関係しながら、『ハムレット』全体のTo be,or not to beの構造を形作ります。

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 番目は第三幕第三場で神に祈るクローディアスの背後でハムレットが身を隠して殺害を狙う場面と、


第三幕第四場で身を隠しているポローニアスをハムレットが殺害してしまう場面です。


これが最も中心に近い対称ペアです。

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 もし付箋にまだ使っていない色があれば、対称ペアの中心になる第三幕第四場でハムレットがガートルードに向ける鏡にも付箋してもいいでしょう。

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 これで全ての対称ペアに付箋をすることができました。それでは付箋した本を閉じて貼った付箋を眺めます。


きれいに小口にV字型に付箋が貼られていることがわかるでしょう。虹色に付箋を貼るときれいです。読むのに邪魔なら天のところに付箋してもいいでしょう。

 これで、対称となっているペアとその周辺を読み直すことが容易になります。このブログでまだ見つけていない何らかの読み方が見つかるかもしれません。

44.「ハムレットはなぜ復讐を遅らせたか」と100年間問われなかったのはなぜか

 『ハムレット』の批評では、なぜハムレットは復讐を先延ばしにしたのかという事が、しばしば問題として取り上げられます。後藤武士の『ハムレット研究』でも第4章が「復讐遷延論」として設けてあり、18世紀から20世紀までの間、この問題がどのように考えられてきたかを見て取ることができます。*1

 しかしこの後藤武士の『ハムレット研究』「復讐遷延論」で着目したいのは、その冒頭で「Hamletが書かれて100年間は、なぜハムレットが復讐を遅らせたかを問題として取り上げる者はいなかった」と書かれていることです。これは言い換えれば、18世紀以降にこの事が問題として取り上げられるようになったという事です。なぜハムレットは復讐を遅らせたかより、なぜその問題が18世紀以降に問題として取り上げられたのか、まずはそれについて考えてみたいと思うのです。そのためには、『ハムレット』が書かれてからの100年、そしてその後の18世紀以降がどのような時代であったかを考える必要があります。

 『ハムレット』が書かれた時代はこれまで考察してきたように、世界観の転換を強いられた時代でした。それまではアリストテレスの思想のもとに天文学と医学、生理学が密接に結びついていました。天文学と医学、つまり星辰や惑星と人体の体液や生命力が結びついており、これらを結び付けているものが精気でした。すでに見たように『ハムレット』の中にはこの精気を前提とした世界観の名残というべきものがあると同時に、やがてそれを駆逐する思想の芽生えも見られます。

 『ハムレット』が書かれてからの100年とは、この精気を前提とする旧来の世界観が新たな世界観にとって代わる過渡期だったということができるでしょう。『ハムレット』が書かれた17世紀初期には、精気はその時代の知見や発見に合わせて考察されうる概念としてありました。しかしその後の17世紀科学革命によって、精気的世界観は徐々に衰退していき、それまで世界に満ちているとされていた世界精気は極めて希薄な物質であると解釈されるようになります。

 さらにこの科学革命によって機械論的な世界観が進むと、精気が担っていた概念も取り払われ、機械仕掛けの時計が世界モデルとなります。シェイクスピアの24年後に生まれ、17世紀中葉に活躍したトマス・ホッブスは機械論的世界観によって、動物から人間、知的活動や国家までも機械とみなしました。世界を満たしていた精気の役割が全て機械に置き換わったと言っていいでしょう。この後にはラ・メトリーの『人間機械論』が1747年に出版されます。

 18世紀になると啓蒙思想が広がり、その理性の光によって旧来の考え方である精気的世界観は闇へと追いやられていきます。ハムレットの復讐遷延が問題として取り上げられ始めるのもこの啓蒙の時代、精気的世界観が失われてしまった時代からです。この事とハムレットの復讐遷延には何らかの関係があるのでしょうか?

 ハムレットが復讐を遅らせたとして取り上げられることが多い場面が、第三幕第三場です。ここでハムレットは、罪の許しを神に祈っているクローディアスの背後から殺害を狙うがやめ、復讐を先送りにします。この場面について、前回、「43.精気から見る『ハムレット』第三幕第三場」として考察しました。

繰り返しになりますが、その内容をもう一度簡単に振り返ってみます。

 ハムレットはここで復讐を先送りにする理由を明確に語っています。神の前で自らの魂を清めて祈るクローディアスをそこで殺害しては、浄められた魂によって天国へ送り届けてしまうことになる。地獄に突き落とすには、救いようのない行為の真っただ中で仕留めなくてはならない、と。

 一方のクローディアスは自らの罪の許しを祈っていながら「言葉は天を目ざすが思いは地にとどまる、思いを伴わぬ言葉は天に行き着くことができない」という印象的な言葉で自分の祈りが天に届かなかったと嘆きます。

 ここでハムレットがクローディアスへの復讐を断念した背景には、クローディアスの精気が祈りによって浄化され地上的なものから引き離されているものとハムレットは判断し、その場で殺害すれば清められた精気によって魂を天へと送り届けることになると考え、殺害を思いとどまったのです。

 それに対して、クローディアスは前王の殺害によって手に入れた利得から離れられないことで、本来的には魂と天との間の媒介者となりうる精気は地上的な重みを増し、その結果、祈りの言葉は天に届かず、魂も救済されないと感じています。

 精気が天への梯になりえるものでありながら、地に縛り付ける重荷にもなる。そしてそれが舞台上では見えなく、緊迫した二人の独白によって語られる。それが精気の観点から見たこの場面での面白味だったのではないでしょうか。そしてこの事が18世紀には精気の概念が失われたために感じられなくなった結果、ハムレットが復讐を先送りにした理由を実感をもって理解できなくなってしまったのではないでしょうか。

 18世紀にシェイクスピア全集を編纂したトマス・ハンマー(16771746)は1730年に次のように述べています。「この若い王子は、何故出来るだけ速やかに簒奪者を殺さなかったのか、物の道理から言ってその理由が何も見当たらない」*2 この「物の道理」という言葉が18世紀の啓蒙の時代の道理であることは言うまでもないでしょう。

 精気的世界観が失われると、英語で精気を意味するspiritの意味も変化していきます。古代からの意味を継承してspiritは精気であり精神であり霊でもありました。世界を満たし天と地を媒介し、さらに生体に流れ精神と身体を媒介するものでした。しかし時代が進むと、これら広がりをもったspiritの意味のうち実在するとされたのは精神だけとなります。

 18世紀後半からは復讐遷延論がハムレットの性格と心理分析が中心となり、ハムレットの独白は復讐を遅らせる無意識的な言い訳と解釈されます。そして20世紀は精神分析によってそれが検討され、エディプスコンプレックスとしてハムレットが解釈されるのです。これらはspiritという言葉の意味から、精気や霊といった意味が信頼できないものとなってしまい、精神だけが信頼に足るものとして残った事と無縁ではないでしょう。

 復讐遷延の理由として、これまで考えられてきたものの一つにハムレットの憂鬱質の問題があります。20世紀初頭にブラッドレーは『シェイクスピアの悲劇』の中でハムレットの行動と心理を分析し、ハムレットが復讐を遅らせたのは、憂鬱質であったためだとしています。*3シェイクスピアハムレットを憂鬱質として描いていること、そしてそれが復讐遷延の原因となっていることは確かでしょう。しかしブラッドレーはあまりに心理分析に傾いている面があります。19世紀から20世紀にかけては心理学と精神分析の時代でした。ブラッドレーのハムレットの憂鬱質の分析は、そのような時代からの影響があったものと思われるのです。 しかし、ハムレットの憂鬱質を正しく捉えるには、ルネサンスの医学、生理学から憂鬱質を見ていかなくてはならないでしょう。それについてはすでに「26ルネサンスの憂鬱質」で見てきました。

symmetricalhamlet.hatenablog.com

 そしてこのルネサンスの憂鬱質は、やはり新プラトン主義の世界観に大きくかかわっていた事もすでに「40土星の子供としてのハムレット」で見てきました。

symmetricalhamlet.hatenablog.com

ハムレットが復讐を遅らせたのは、確かに憂鬱質という性格を際立たせるためのなのでしょうが、その憂鬱質は当時の新プラトン主義の世界観とその問題をこの劇作品の中に練りこむためのものだったのだと思うのです。

 

*1:藤武士『ハムレット研究』研究社出版 1991年 119ページ 

ほぼ同じ問題を扱った後藤武士の論文『ハムレットの"delay"論再考-20世紀Hamlet批評の推移ーをネット上で読むことができます。

http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/bg/147/files/135403

*2:ブラッドレー 中西信太郎訳『シェイクスピアの悲劇(上)』 岩波文庫 1938年 121122ページ

*3:ブラッドレー 中西信太郎訳『シェイクスピアの悲劇(上)』 岩波文庫 1938年 160ページ

43.精気から見る『ハムレット』第三幕第三場

 前回は第一幕に登場する父ハムレットの亡霊と、第五幕第二場で死ぬハムレットを、死後の精気のあり方という観点から見ました。精気は肉体と霊魂、見えるものと見えないものを媒介する役割を持ちます。そのため宗教的な場面では、神的な存在との媒体ともなるのです。

 『ハムレット』において宗教的な場面としては、第三幕第三場でのクローディアスが自らの罪の許しを神に祈る場面をあげることができるでしょう。この無防備な状態のクローディアスをハムレットが狙うのですが、この場での復讐を断念する場面です。

 この場面に関してはすでに第三幕第四場のガートルードを対称的な観点から比較し「31.クローディアスの懺悔とガートルードの悔悟」で考察しました。

symmetricalhamlet.hatenablog.com

今回は精気という観点から、この場面のクローディアスとその命を狙うハムレットを見てみたいと思います。ハムレットとクローディアスの台詞を取り上げながら、振り返ってみましょう。

 

 劇中劇が中断された後、クローディアスは一人自らの罪の許しを神に祈ろうと試みます。しかしクローディアスの内には兄殺しによって手に入れたものを手放すことができず、神の前で葛藤します。

 

クローディアス  ああ、だがわたしにどう唱えて

祈ることができるというのだ。「非道な殺人を許したまえ」とでも。

ばかな、殺人を犯すまでして手に入れたものを

いまも享受しているこのわたしだ、

王冠、野心の対象のすべて、それに王妃。

罪の利得をしっかと握ってしかも許されるというようなことが。*1

 

 葛藤しながらもクローディアスは膝をついて祈ります。そして、その背後でハムレットが復讐の機会を狙います。祈りで無防備となっているクローディアスとその背後から殺害を狙うハムレットが演出され、『ハムレット』の中でも最も緊迫した場面です。観客の注意力はこの緊迫感に注がれますが、同時にこの二人の内面にも分け入っていくことになります。

 

ハムレット  今だ、今ならすぱっとやれるかもしれない。祈りの

最中だから。よし復讐だ ―― するとあいつは天国へ行って

こっちは復讐完了。いや、これは考えものだぞ。

 

 この後に続く台詞でハムレットはクローディアスが父を殺害した場面を思い出し、それを祈りの中で殺害された場合のクローディアスと比較し、その場での復讐を思い止まります。

 

ハムレット  父上は放縦にぬくぬくとくるまれ、暖衣飲食、現生の

罪の悦楽が五月の盛りと咲き誇っていたさなか、突如襲われた。

天の決算書の内容は神の知ろしめすところだが、

地上のわれらが思いめぐらすかぎりでも、ずいぶん

厳しいものであるだろう。それなのに、この男が魂を

浄めて、死の出立ちの準備が万端整っているときに

送り出す。それで復讐になるというのだろうか。

断じて違う。

 

 ハムレットは、クローディアスが祈りによって魂が浄化されていると考え、復讐を見送ります。そこでクローディアスを殺せば、祈りによって清められたその魂は天国へ行くと考えたからです。クローディアスを地獄へ送り届けるために、クローディアスが救いようのない不道徳な行いをしているときにこそ復讐を実行しなくてはならないと考え、剣を納めます。

 

ハムレット 剣よ、鞘に戻って、また握られる恐怖のときを待て。

泥酔して眠りこけているとき、情欲にくるっているとき、

近親相姦の床で快楽にふけっているとき、

賭博、罵詈雑言、なんにしろ救いの

気味のひとかけらもない行為のとき、

そこを狙ってこいつを足払い、こいつの踵は天を蹴って

地獄へ真っ逆さま、たちまち魂は地獄の色、

どす黒い呪いの色。さあ、母上がお待ちだ。

この延命薬はお前に苦悶の病の日を重ねてもらうため。 [退場]

 

 しかし、クローディアスは祈りの後に、その祈りが満足のいくものでなかったことを次のように独白します。

 

クローディアス  言葉は天を目ざすが思いは地にとどまる、

思いを伴わぬ言葉は天に行き着くことができない。

「今ならすぱっとやれるかもしれない。・・この男が魂を浄めて、死の出立ちの準備が万端整っているときに送り出す。断じて違う」「ああ、死よりも暗いこの胸!魂は鳥もちにかかったように、もがけばもがくほど動きがとれない」(第三幕第二場)ドラクロワ 1843年



 以上がクローディアスの祈りとその殺害を狙うハムレットの場面です。この場面の理解をより明確にするには、人間の生と死における精気の働き、救済における精気の役割を概念としてえることが必要であると思われるのです。なぜなら、先にも記したように精気は目に見えるものと見えないもの、物質世界と神的な世界との媒介となるものだからです。そのためにアガンベンの『スタンツェ』から前回にも引用した箇所とそれに続く文をもう一度見てみます。新プラトン主義における死後の魂と精気のあり方についてです。

 

肉体が死を迎えたあと、もし魂が物質と手を切る術を心得ているならば、その魂はプネウマという媒介物とともに空へと昇っていく。その反対に、魂が物質から離れられない場合、プネウマ=媒体は重さを増し、まるで貝殻に塞がれて身動きの取れない牡蠣のように、魂は地上へと引きとどめられ、懲罰の場へと連行されるのである。地上での生活においては、プネウマは想像力の道具であり、そのようなものとして、それは夢や宇宙的な感能力、そして予知や法悦といった天啓の主体となる。*2

 

 ここで問題となっているのは、「魂が物質と手を切る術を心得ている」場合と、「魂が物質から離れられない場合」です。前回は「魂が物質と手を切る術を心得ている」あり方として、第五幕第二場のハムレットの死を考察しました。ハムレットはその死において地上に思いを残す事がないように表現されていました。つまりそれは「魂が物質と手を切る術を心得ている」あり方であったわけです。それに対して、亡霊となって現れている父ハムレットは「魂が物質から離れられない場合」として見ることができました。

 そして、今回考察する第三幕第三場でもこの「魂が物質と手を切る術を心得ている」あり方と、「魂が物質から離れられない場合」のあり方が、別の形で問題となっています。ハムレットがその場での復讐を思いとどまる時の台詞に、それが現れています。

 

ハムレット この男が魂を

浄めて、死の出立ちの準備が万端整っているときに

送り出す。それで復讐になるというのだろうか。

断じて違う。

 

 この台詞の中の「魂を浄めて、死の出立ちの準備が万端整っているとき」とは、「魂が物質と手を切る術を心得ている」事にほかありません。つまり、ここでハムレットがクローディアスへの復讐を断念したのは、クローディアスの精気が祈りによって浄化され地上的なものから引き離されており、その場で殺害すれば清められた精気によって魂を天へと送り届けることになると考えたためです。

 それに対するクローディアスの方を見てみましょう。クローディアスは神に祈ろうとして苦しむのはその魂が現生から離れられないためです。

 

クローディアス ばかな、殺人を犯すまでして手に入れたものを

いまも享受しているこのわたしだ、

王冠、野心の対象のすべて、それに王妃。

罪の利得をしっかと握ってしかも許されるというようなことが。

 

 そして神の許しと現生の利得という相反する望みによって、魂は動きが取れなくなります。

 

クローディアス 魂は鳥もちにかかったように、もがけばもがくほど動きが

とれない。天使たちよ、なんとかこのもがくわたしを助けてくれ。

 

 この台詞の表現は、死後の「魂が物質から離れられない場合、プネウマ=媒体は重さを増し、まるで貝殻に塞がれて身動きの取れない牡蠣のように」という表現に通じます。クローディアスは葛藤しながらもどうにか膝を折り神に祈ります。しかし、祈りを終えた後、その祈りが神に届くことがなかったことを自覚してつぶやきます。

 

クローディアス  言葉は天を目ざすが思いは地にとどまる、

思いを伴わぬ言葉は天に行き着くことができない。

 

 この台詞の中の「思い」とは、精気の働きの一側面であるという事は「31.クローディアスの懺悔とガートルードの悔悟」で考察したように、この台詞の前提も精気の世界観です。その世界観によって読むなら、クローディアスは前王の殺害によって手に入れた利得から離れられないことで、魂と天との間の媒介者となりうる精気は地上的な重みを増し、その結果、祈りの言葉は天に届かず、魂も救済されないと感じている、となるでしょう。

 このように第三幕第三場のクローディアスの祈りの場面は、クローディアスとハムレットの内面で、外からは直接に見る事も聞くこともできない精気についての認識が大きな役割を演じているのです。

 次回は、今回の考察を踏まえて『ハムレット』の謎の一つである「なぜハムレットは復讐を先延ばしにしたのか?」という謎を解いていきたいと思います。

*1:ハムレット』の引用は、大場建治訳、注解 シェイクスピア選集8 ハムレット 研究社 2004年から

*2:ジョルジュ・アガンベン 岡田温治訳 『スタンツェ』 ちくま学芸文庫 2008

42.ハムレット父と子の霊

 前前回は第五幕第一場の墓掘りの場面の考察をしました。この第五幕第一場にハムレットが登場すると、墓掘りはまずハムレットにとって見ず知らずの人々の遺骨を掘り返します。そして次にハムレットが幼い頃に親しんだ宮廷の道化ヨリックの頭蓋骨を取り上げ、さらには亡くなったばかりのオフィーリアの遺体が埋葬のために運ばれてきます。

「この頭はね旦那、あのヨリックのですよ、王さまお抱えの道化の」「見せてくれ。あああわれヨリック」(第五幕第一場) ドラクロワ 1843年

ハムレットにとって遠い人の古い遺骸から新しく近しい人物の遺体へと死が次第に近づいて来るかのようです。
 この場面を見ると、なんだか仏教絵画の九相図*1を逆にさかのぼっているように感じられるのです。遺骸は棺に埋葬しますので、九相図のような生々しい場面は土の中で進行するわけですが、ハムレットはそこまで観想しようとします。
ハムレット 人間は土の中でどれぐらいで腐るものなのかな?
道化1 そうさなあ、死ぬ前から腐ってなきゃ ― いやね、旦那、今日びは梅毒病みの体がやけに多くってね、墓に納めるまでなかなかもたないんでね。ま、そんなことでもなきゃ、八、九年ってとこかね。*2
 さらにハムレットアレクサンダー大王にに思いをはせた後、諸行無常をかみしめ歌を詠みます。

ハムレット 帝王シーザー死して土芥と化す、

もって孔を塞ぎ風を遮るをいかんせん。

ああ思いきや、往昔全土を畏怖せしめたる一塊の土、

当今破壁を繕い厳冬の朔風を防がんとは。

 

 もはや仏門に入りそうな様子です。しかしこの後登場するのはキリスト教の司祭で、オフィーリアの葬儀が執り行われます。ハムレットは、ここでオフィーリアをめぐって彼女の兄のレアティーズと争い、その後の第五幕第二場のレアティーズとの剣の試合につながります。最終的にはこの第五幕第二場で、死はデンマークの宮廷を飲み込むように王と王妃、レアティーズをも巻き込みハムレットは死んでしまいます。そしてその亡骸はフォーティンブラスの命令によって壇上に安置される事となります。

 この壇上に安置される事になる『ハムレット』の亡骸が、第一幕第一場で胸壁上に現れる父ハムレットの亡霊と対称となっている事は「5.ハムレットの亡霊と息子ハムレットの亡骸」から「8.実体のない存在―語り、亡霊―」で考察しました。

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 しかしそこで考察したのは主に『ハムレット』の構成についてでした。今回はこの第一幕と第五幕によって暗示されていると考えられる霊について考えてみたいと思います。

 ルネサンスの世界観で霊と体を考える時、忘れてはならないのが精気の存在です。なぜなら、これまで見てきましたようにルネサンスの世界観では、霊と体の媒介となるものが精気であったからです。この事によって精気は第一幕と、第五幕が意味するものを解き明かすための媒介となるかもしれないのです。

 この精気は、人間が生きている間は、臓器や血管、脳などをめぐり、精神と身体を媒介するものでした。しかし精気が作用しているのは、人間が生きている間だけではありません。新プラトン主義では、人が死んだ後にも精気に重要な役割が与えられていたのです。アガンベンの『スタンツェ』から新プラトン主義における死後の魂と精気についての記述がありますので、それをここで見てみましょう。

 

肉体が死を迎えたあと、もし魂が物質と手を切る術を心得ているならば、その魂はプネウマという媒介物とともに空へと昇っていく。その反対に、魂が物質から離れられない場合、プネウマ=媒体は重さを増し、まるで貝殻に塞がれて身動きの取れない牡蠣のように、魂は地上へと引きとどめられ、懲罰の場へと連行されるのである。*3

 

ここには精気(プネウマ)から見た人間の魂の死後における二つの道筋が描かれていることがわかります。その意味で第一幕での亡霊と第五幕のハムレットの亡骸と関係が深いと言えます。それを踏まえて、まずは第一幕第五場を見てみましょう。亡霊がハムレットに、自らの死後について明かす台詞です。

 

亡霊 わたしはお前の父親の亡霊だ。

裁きの結果相当の期間夜はこの世をさ迷い歩き、

昼は食を断って浄火の中に籠められ、

生前犯した罪業のかずかずが焼かれ、

浄められるのを待つ身なのだ。

 

 この台詞の最初で亡霊は自らがハムレットの父の亡霊であると宣言しています。原文ではこの役名である亡霊はghost ですが、台詞の中の亡霊はspirit という語が使われています。spirit は亡霊という意味の他に、精神や聖霊、天使などの超自然的存在も意味する言葉ですが、このブログの「22.精気=プネウマ⇒スピリトゥス⇒スピリット≒気」で説明しましたようにラテン語spiritus から派生した語でもともとは精気を意味します。

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つまり亡霊は自らを精気であると言っているのです。そうであればこの台詞を精気の世界観を前提として読み解いていく事は、間違ってはいないでしょう。*4

 そしてこの台詞を先に引用した『スタンツェ』からの文と比べてみると、父の亡霊は「地上へと引きとどめられ、懲罰の場へと連行され」ていることがわかります。つまり精気の世界観から見ると、父ハムレットは魂が物質世界から離れられないため、その精気が重みを増していると考えていいでしょう。

 では次に第一幕の亡霊の場面に対応する第五幕のハムレットの死の場面を見てみましょう。第五幕第二場でハムレットは自らが傷を負った毒塗りの剣でクローディアスを刺したうえに毒を飲ませて殺し、ようやく復讐を遂げます。その後ともに瀕死のレアティーズとハムレットは互いを許しあいます。

 

レアティー ハムレットさま、おたがいに許しあいましょう。

わたしの死も、父の死も、どうかあなたの罪になりませぬよう、

あなたの死もわたしの罪になりませぬよう。

ハムレット 天が君の罪をお許し下さるよう。ぼくもすぐ行くよ。

 

レアティーズは先に死に、自らの死を悟ったハムレットは自分自身の事を正しく伝えてほしいとホレイショーに依頼します。しかしホレイショーはそれを拒否し自分も毒杯を仰いで死のうとします。しかしハムレットはその杯を奪い、もう一度懇願します。

 

ハムレット いいかホレイショー、このまま真相が知られずに過ぎたら、

どんな汚名がぼくの後に生き残ることか。

君が本当にこのぼくを心の友として大切に思ってくれるのなら、

しばらくは至福の死から離れて

過酷な現世の苦しみの生を続け、ぼくの物語を

語ってやってくれ。

 

 このあとフォーティンブラスがこの現場に訪れ、ホレイショーはハムレットの遺言通りにハムレットの物語を語ることになるのです。

 このようにハムレットの死の場面を見てみると、その死にあたってハムレットは現世への思いを残さぬように描かれているように見えます。父の復讐を遂げて、レアティーズとともに許しあい、ポローニアスの殺害の罪についてもその許しをレアティーズに祈ってもらっています。そして遺言通りに後世のためにハムレットの物語はホレイショーによって語られることになるわけです。

 つまりハムレットの死は、ハムレットが物質世界への思いを残さぬように描かれており、これによって精気の世界観から見れば、ハムレットの魂は物質から解放され軽くなった精気によって天に召されるように描かれているのです。

 おそらく、ハムレットの死をこのように描くことによって、父の亡霊のあり方と対照とし、この二つの姿に死後の精気が物質の影を帯びたあり方と、物質から解放されたあり方を表現したものと思われます。

 しかし父の亡霊(スピリット―精気)が舞台に演出されているのに対して、第五幕ではハムレットの死の後は亡骸としてのハムレットが演出されているだけで、死後の精気などは直接的には描かれていません。そのためこれを死後の精気のあり方を表現したなどとは認めにくいかもしれません。

 これについては、父の亡霊(スピリット―プネウマ)が物質世界から離れられず、重みを帯びているがゆえに亡霊として物質世界に見えるものとなっているのに対して、ハムレットは死に際して思い残すことなく、そのために精気は物質世界に残ることなく、もはや物質世界では見ることも感じることもできないのだ、ということができます。つまり、ハムレットの死後の精気についてはまったく演出されないということが、この二つの精気の様態を対照的に描く正しい形であるといえるのです。そしてこの精気のあり方もまた、見えるか、見えないか、あるいは現れているか、そうでないか、というあのクエスチョン”To be, or not to be, that is the question.”を思い起こさせるのです。

 

*1:屋外に打ち捨てられた死体が朽ちていく経過を九段階に分けて描いた仏教絵画

ja.wikipedia.org

*2:ハムレット』の引用は、大場建治訳、注解 シェイクスピア選集8 ハムレット 研究社 2004年から

*3:ジョルジョ・アガンベン 岡田温司訳 『スタンツェ』 ちくま学芸文庫 2008年 189ページ

*4:ghostは主に幽霊、亡霊といった意味ですが、英和辞典でghostを見てみると、古語としての用法で霊、聖霊the Holy Ghost”といった意味があげられており、spiritと意味が重なっていたようです。「霊、魂、体」は英語では、”spiritsoul, body” ですが、独語では”Geist, Seele, Leib” となり、ghost と語源を同じくするGeist が霊の意味で使われます。spirit ラテン語を語源として気息の意味がありましたが、 ghostの方はゲルマン祖語を語源として死者の魂、人間の心を意味していたようです。『ハムレット』は北欧の伝説と南のルネサンス文化が入り混じっているのですが、この亡霊の台詞だけでもそれが見られるようで興味深いと思います。

この注に関してこちらのサイトを参考にさせていただきました。

information-station.xyz

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