ハムレットのシンメトリー

Hamlet's Questions and One Man's Answers

31.クローディアスの懺悔とガートルードの悔悟

 前回は第三幕第三場のハムレットが身を隠しクローディアスを殺そうとする場面と、第三幕第四場のハムレットが身を隠しているポローニアスを殺してしまう場面が対称となっている事を見ました。これは確かに対称となっているのですが、他の対称ペアと比べて面白みがないのです。他の対称ペアは四体液説だったり、精気だったりとルネサンス思想がてんこ盛りで、書いていても楽しかったわけです。

 それで、今回はこの少し物足りない第三幕第三場と第三幕第四場の対称ペアに、もう少し何かないかとその周辺を探ってみたいと思うのです。

 第三幕第三場はクローディアスが、第三幕第四場ではガートルードがハムレットとともに登場しているのですが、この王と王妃の二人を見てみましょう。

 第三幕第三場で一人になったクローディアスは、兄を殺した罪の許しを得るため祈ろうとしますが、神の前で葛藤します。

 

クローディアス わたしの罪の強さは決意の強さをたちまちうちまかし、

同時に二つの仕事に関わった男のように、

出発点に立ちすくんだまま、わたしは双方ともに

果たすことができない。

 

 それに対して第三幕第四場では、ハムレットに激しく責められたガートルードもやはり葛藤に苦しみます。

 

ガートルード あなたはわたしの目を心のそこに向けました、

そこに見えるのはどす黒い染み、いくら

洗っても落ちはしない。

ああハムレット、あなたはわたしの心を二つに引き裂いた。

 

 このように両者とも葛藤し苦しむわけで、対称的のように見えます。上に引用した二人の台詞を見ますと、クローディアスの方はその行為について語られ、外的であるのに対して、ガートルードでは自らの心について語られ内的である事がわかります。

 また、クローディアスはこの祈りの場面である第三幕第三場の終わりに自らの懺悔の祈りが達成されなかったのを感じ、次のように言います。

 

クローディアス 言葉は天を目ざすが思いは地にとどまる、

思いを伴わぬ言葉は天に行き着くことができない。*1

 

 このクローディアスの台詞は言葉について語っているのですが、第三幕第四場の終わりで、ガートルードの台詞にやはり言葉について語ったものがあります。ハムレットがガートルードに、自分が気違いのふりをしているのだとクローディアスにばらしてしまうがいいと言い、それに対してガートルードが言う台詞です。

 

ガートルード 安心して。言葉が息から生まれ

息が命から生まれるなら、

お前が言ったことを息に洩らす命はない。*2

 

 クローディアスの方は2行で、ガートルードは3行ですが、両方とも言葉に関しての前提が2節、その結果が1節で述べられて3段論法のような形になっています。その最後の1節は否定形となっている事も共通しています。また、クローディアスの台詞では発せられた言葉による天への働きかけについてが語られ、ガートルードの台詞は言葉が発せられる以前の内的な事柄についてが語られています。ここでもクローディアスは外に向き、ガートルードは内側に向いていることがわかります。

 まずはクローディアスの台詞の方から詳しく見ていきましょう。クローディアスは、自らの罪を懺悔し罪の許しを神に祈るのですが、その祈りが達成されなかった事を感じ、この台詞をつぶやくのです。

 この台詞における天とは、神の住まう目には見えない領域を意味しているわけです。この天に対する地とは「王冠、野心の対象のすべて、それに王妃」*3です。クローディアスはそれらを手放すことができない。それら目に見える利得への思いのために神に言葉が届かないことを嘆いているわけです。

 さて、ここで注目したいのはこの台詞の中での「思い」という言葉です。21.弔いと結婚、記憶と思いの記事で記しましたように、当時の学問において「思い」とは精気の一つの形態でした。そして精気は目に見えるものと見えないもの、物質と精神、地上のものと天上のものとの媒介となるものでした。つまりこのクローディアスの台詞では、祈りにおいて天と地の媒介となるべき精気が、思いとして地上的な重みを帯びているため、祈りの言葉を天に届けることができないという事が表されているのです。

 次にガートルードの台詞の方を見てみます。この台詞は「おまえの言った事は口外しませんよ」という意味なのですが、それがこのような晦渋な言い回しなのは、他の意味が含まれていることが予想されます。すぐに気になるのが、「息」という言葉です。これは精気を意味するプネウマ、スピリトゥスという語のもともとの意味が息であったことから、ここでも精気がほのめかされているようです。

 そのように考えると、この台詞には精気から見た発語の段階が示されているようです。命から精気が生じ、それによって言葉が発せられる、このような認識が、近代以前の精気論的世界観にはあったようです。

 

スコラ哲学の記号論の外に身を置くことでダンテは、愛の詩において本質的な役割を果たしてきたプネウマ=ファンタスマ的理論の中に、言語理論を再び据えなおそうとしているのである。

この理論の領域においては、声は最初から、心臓に由来するプネウマの流れと見なされ、喉頭を経由して、舌を動かすのである。*4

 

アガンベンは『スタンツェ』の中でダンテの『煉獄篇』からの詩節を引用した後でこのように書いていますが、ここで述べられていることは先のガートルードの台詞の命を心臓に、息をプネウマとすると、同じことが述べられている事がわかるでしょう。

 さらにこの台詞には旧約聖書の創世記一章での、神の発語による万物を創造を思い起こさせます。またその二章七節では「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。」*5とあります。先に引用したガートルードの台詞の前半の原文は if words be made of breath, And breath of life, です。このAnd breath of life, And breath be made of life,be made を省略した形と考えられますが、それによってこの文には創世記の第二章と同じ breath of life 「命の息」という語句が現れ出ているのです。つまりここには創世記にある「命の息」という言葉が使われているのです。そしてこの「命の息」はキリスト教に受け取られプネウマからスピリトゥス、聖霊となったわけです。

 このようにガートルードの台詞が創世記のこの文を踏まえているのであれば、先のクローディアスの台詞と並んで宗教的な意味が含まれていることになるでしょう。そのように解釈することを許してもらえれば、クローディアスの台詞が自らの外の神の許しが問題となっているのに対し、ガートルードの台詞にある「命の息」は神から吹き入れられた内的なものです。

 先にクローディアスとガートルードの二人の悔悟の台詞を分析し、クローディアスが外的な行為にその関心が向けられているのに対して、ガートルードは内的な自らの心へ関心が向けられている事を見ましたが、この言葉についてのそれぞれの台詞における神的な存在に対しての関わりでも、クローディアスは外的であり、ガートルードは内的です。これは表現を変えれば、クローディアスの台詞では神的なものが超越的であり、ガートルードにおいては内在的であると言っていいでしょう。

 さて、このようにはじめは物足りないように感じた第三幕第三場と第三幕第四場にも、取って付けたような感じではありますが、精気を暗示した箇所が見つかりました。今回で現時点で私が見つけた『ハムレット』の中の対称ペアは全て公開しました。しかしこれで終わりではありません。この『ハムレット』のシンメトリー構成とそこに込められているルネサンス思想は、これまで『ハムレット』の中で謎とされていたいくつかの問題とを解く鍵となるのです。ですので、まだまだこのブログは続いていきます。

 

 

*1:以上、『ハムレット』からの引用は、大場建治訳、注解 シェイクスピア選集8 ハムレット 研究社 2004年 から

*2:この台詞のみ、松岡和子訳 シェイクスピア全集Ⅰ 『ハムレットちくま文庫 1996年 から

大場建治訳では

「安心なさいな。言葉が息から生まれ、

息に命があるものなら、あなたの秘密を洩らす

息も命もわたしにはありませんから」

*3:この第三幕第三場でのクローディアスの独白から

*4:ジョルジュ・アガンベン 岡田温治訳 『スタンツェ』 ちくま学芸文庫 2008

*5:シェイクスピアの時代のカヴァーデイル聖書(1535)での当該箇所は以下のようになっています。

"And ye LORDE God shope man eue of the moulde of the earth, & brethed in to his face ye breth of life. And so was man made a lyuynge soule. "

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