ハムレットのシンメトリー

Hamlet's Questions and One Man's Answers

49. ”To be, or not to be, that is the question” その問題とは何だったのか?

 

    ウィリアム・シェイクスピア 


 前々回の
47.アムレートからハムレット - ハムレットのシンメトリーの記事では、ニューケンブリッジ版『ハムレット』の序文で述べられている『ハムレット』の題材となったアムレートの物語と『ハムレット』を比較した際の6つの変更点について考えてみました。この6つの変更点は『ハムレット』の隠れた主題を考える際に非常に重要なものと思われます。なぜならアムレートの物語にない事柄はシェイクスピアの独創であり、なぜこれらを付け加える必要があったのか、その答えが『ハムレット』の本質ともいえるからです。

 さらに前々回の記事では、この『ハムレット』における6つの変更点がすべてABCDEF| fedcba構成 に必須の要素である事を見ました。そのことからシェイクスピアはアムレートの物語をその骨組みとして、そのストーリーとは別に表現すべき内容をABCDEF| fedcba構成として肉付けることによって『ハムレット』を執筆したのではないかとしました。

 そうであればABCDEF| fedcba構成によって表現されたものとは何だったのでしょうか?これまでそれぞれの対称ペアの考察を振り返ると、ただ単に対称となっているだけでなく対称ペアの一方がTo be で、もう一方がNot to beとして描かれていました。つまりABCDEF| fedcba構成によって表現されたものとは”To be, or not to be” という “The question” だったということがわかるでしょう。

 ”To be, or not to be, that is the question.”というハムレットの台詞はこのブログの1.”To be, or not to be, that is the question. “ その何が問題か? - ハムレットのシンメトリーでも紹介したようにさまざまに翻訳されてきました。それはこの台詞の解釈がいまだ定まっていない事の表れでもあります。しかしそれは舞台の中のハムレットの台詞としての意味です。それに対して”To be, or not to be, that is the question.”という言葉が舞台の外の観客あるいは読者に向けたものとしても考えられるという事も指摘しました。その場合”The question”とはシェイクスピアから私たちに向けられた問題で、『ハムレット』のテキストが問題文です。

 そして私たちはこれまでABCDEF| fedcba構成の中にTo be そしてNot to beが組み込まれているという事を見てきました。その『ハムレット』という問題文の中に”To be, or not to be”を見つけ出すことができたと言えるでしょう。その事をもってシェイクスピアからの”The question”に答えることができたのでしょうか?そうなのかもしれませんが、これらの対称ペアを見つけ出したことはまだ『ハムレット』という問題文の中から”The question”を見つけ出した段階なのかもしれません。

 そうであるなら、ABCDEF| fedcba構成によって表現された”To be, or not to be”とはいったい何なのか?これまでの考察の中で、この”To be, or not to be”にはいくつかの意味があることがわかりました。それらをここで振り返りながらこの”The question”に対する答えを探ってみたいと思います。

 まず”To be, or not to be”シェイクスピアがある事柄を「舞台上に表現するか、それとも舞台上でなく観客の想像の中に現れるように表現するか」という意味があったのではないかということを7.舞台の上に To be,or not to be - ハムレットのシンメトリーで指摘しました。

  この舞台上に表現されているか、それとも表現されていないかという事で最も重要なものがホレイショーの閉幕後の語りです。『ハムレット』の閉幕直前にホレイショーがこれまでの経緯を語りましょうというのですが、それが語られる前に『ハムレット』は閉幕となります。そのためこの語りはNot to beと言えるのです。しかしこのホレイショーが語ろうとしたことは『ハムレット』全体と言ってもいいのです。つまり舞台で演じられている『ハムレット』は閉幕後のホレイショーの語りを見えるように舞台に表現されたものと言えるのです。舞台上に表現されているつまりTo be です。ホレイショーの語りは見方を変える事によってNot to beでありTo be でもあるのです。

symmetricalhamlet.hatenablog.com

 このようなある見方で見るとTo be でありながら、別の見方ではそれがNot to beとなるように描かれているものは対称ペアとして他にもありました。そのような対称ペアはA|a E|e の対称ペアです。

 A|a とはAの父ハムレットの亡霊とa ハムレットの亡骸の対称ペアです。このAの父ハムレットの亡霊は、霊という非物質的な存在であるため物質的にはNot to beと言えます。それに対してハムレットの亡骸は死体という物質として存在しているためTo be です。しかし見方を物質から霊に変えますと、父の亡霊はこの世に姿を現しているという意味でTo be であるのに対して、ハムレットの亡骸は霊がこの世から去ってしまったという意味でNot to beということができます。父ハムレットの亡霊とハムレットの亡骸は見方を変えることによって、それぞれTo be でありNot to beでもあるのです。

symmetricalhamlet.hatenablog.com

 次にE|e を見てみましょう。E劇中劇とeハムレットのイギリスへの渡航です。Eの劇中劇は観客にとって劇の中心にあることから舞台上にTo be と言えます。それに対してe ハムレットのイギリスへの渡航は舞台上に表現されていないためNot to beです。しかし劇中劇は劇の中の劇であるためより実在性の乏しいものということでNot to beであるとも考えられます。グローブ座の観客にとって実在という意味で遠く離れているのです。しかしそれに対してハムレットのイギリスへの渡航は、ロンドンのグローブ座の観客により近づいており、『ハムレット』という劇を観客たちがいる現実のイギリスに近づけているのです。その意味でTo be ということができます。

symmetricalhamlet.hatenablog.com

 このように見た場合の To be, or not to beは『ハムレット』の台詞としての”To be, or not to be”とは意味が微妙に異なる事に気づきます。ハムレットの台詞としての”To be, or not to be”は主語はハムレット自身で、ハムレット自身の存在の選択に関わっています。「生きるべきか、死ぬべきか」「このままにあっていいのか、いけないのか」のように訳されるように主体の二者択一の意味です。

 しかし上記のようにABCDEF| fedcba構成の見かたとしてTo be, or not to be を考えると、ある存在がTo be として認識されるか、Not to beとして認識されるかとなり、主語は観察される対象となります。これは「ある存在が現れているか、そうでないか」と言いかえる事ができます。このような「ある存在が現れているか、そうでないか」とは何なのでしょう?このようなあり方をする存在とはこのブログで度々話題としてきた精気の事なのではないかと思うのです。

symmetricalhamlet.hatenablog.com

 精気とはspiritつまり霊でもあります。先にみたようにA|a のペアにおいてspiritTo be, or not to beとして読むことができました。この対称ペアでは死後の精気のあり方が問題となっているのです。 

 精気は死後だけでなく人間が生きている間もその精神活動、身体活動を支えています。精神活動は霊魂の精気によって、身体活動は自然の精気、生命の精気によって活気づけられます。さらに霊魂の精気は脳の3つの小部屋で想像、記憶、思考の表象を生み出します。このうち記憶と思考に関してB|b で表現されていました。これは間接的ではあるのですが精気の人間観に関わっています。

 さらにD|d にはハムレットの手紙とオフィーリアの歌が描かれていましたが、これらは精気の世界観によって読むことによってより深く読むことができました。

symmetricalhamlet.hatenablog.com

 また、第三幕第三場のハムレットがクローディアスの殺害を見送る場面でも、そのハムレットの真意を知るには精気の世界観をもって読まなければなりませんでした。

symmetricalhamlet.hatenablog.com

 さらに『ハムレット』の批評に関しても、この精気の世界観が失われていった事が大きく関わっていました。

symmetricalhamlet.hatenablog.com

 精気はそれ自体は物質的に知覚されるものではありません。しかしそれは世界の現象の背後にあり、人間には活力や精神活動として現れる存在でした。これについて、ジョルジョ・アガンベンは『スタンツェ』 第三章 言葉と表象像 の中で、ダンテの詩の中の「精気」という概念に触れ、この精気(プネウマ)が単に、当時の医学、生理学用語としてだけでなく、宇宙論や心理学、救済論、さらには魔術的な事柄にも関わるものであったことを明らかにしています。

プネウマ論的学説においては、医学から宇宙論、心理学から弁論術、救済論にいたるまで中世文化のあらゆる側面が複雑に絡みあっている。そして、このプネウマ論の相においてこそ、これら中世文化の諸側面は、聳え立つ一個の建築、おそらくは中世末期の思考が築き上げたもっとも荘厳な知の大聖堂へと、調和的に融合することができるのである。ところが、この大聖堂の少なくとも一部が今日もなお地中に埋もれたままであるために、われわれはこれまで、その最も完璧な成果である十三世紀の恋愛詩でさえ、あたかも美術館の展示室でわれわれに謎めいた笑みを投げかける、あの彫像の残骸のようにしか見てはこなかった。*1

 

 アガンベンのこの文の中の「十三世紀の恋愛詩」という言葉を、中世の知を受け取ったルネサンス期の知の成果である『ハムレット』にもそっくり置き換えることができると思うのです。そして、十七世紀というこのような知が廃れ、近代知へと移り変わろうとする分岐点にあって『ハムレット』はルネサンスの知の最後の芸術的な精華と見なすことができるのではないでしょうか。

 

 

*1:ジョルジョ・アガンベン『スタンツェ』岡田温司(訳)〈2008 ちくま学芸文庫185ページ