43.精気から見る『ハムレット』第三幕第三場
前回は第一幕に登場する父ハムレットの亡霊と、第五幕第二場で死ぬハムレットを、死後の精気のあり方という観点から見ました。精気は肉体と霊魂、見えるものと見えないものを媒介する役割を持ちます。そのため宗教的な場面では、神的な存在との媒体ともなるのです。
『ハムレット』において宗教的な場面としては、第三幕第三場でのクローディアスが自らの罪の許しを神に祈る場面をあげることができるでしょう。この無防備な状態のクローディアスをハムレットが狙うのですが、この場での復讐を断念する場面です。
この場面に関してはすでに第三幕第四場のガートルードを対称的な観点から比較し「31.クローディアスの懺悔とガートルードの悔悟」で考察しました。
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今回は精気という観点から、この場面のクローディアスとその命を狙うハムレットを見てみたいと思います。ハムレットとクローディアスの台詞を取り上げながら、振り返ってみましょう。
劇中劇が中断された後、クローディアスは一人自らの罪の許しを神に祈ろうと試みます。しかしクローディアスの内には兄殺しによって手に入れたものを手放すことができず、神の前で葛藤します。
クローディアス ああ、だがわたしにどう唱えて
祈ることができるというのだ。「非道な殺人を許したまえ」とでも。
ばかな、殺人を犯すまでして手に入れたものを
いまも享受しているこのわたしだ、
王冠、野心の対象のすべて、それに王妃。
罪の利得をしっかと握ってしかも許されるというようなことが。*1
葛藤しながらもクローディアスは膝をついて祈ります。そして、その背後でハムレットが復讐の機会を狙います。祈りで無防備となっているクローディアスとその背後から殺害を狙うハムレットが演出され、『ハムレット』の中でも最も緊迫した場面です。観客の注意力はこの緊迫感に注がれますが、同時にこの二人の内面にも分け入っていくことになります。
ハムレット 今だ、今ならすぱっとやれるかもしれない。祈りの
最中だから。よし復讐だ ―― するとあいつは天国へ行って
こっちは復讐完了。いや、これは考えものだぞ。
この後に続く台詞でハムレットはクローディアスが父を殺害した場面を思い出し、それを祈りの中で殺害された場合のクローディアスと比較し、その場での復讐を思い止まります。
ハムレット 父上は放縦にぬくぬくとくるまれ、暖衣飲食、現生の
罪の悦楽が五月の盛りと咲き誇っていたさなか、突如襲われた。
天の決算書の内容は神の知ろしめすところだが、
地上のわれらが思いめぐらすかぎりでも、ずいぶん
厳しいものであるだろう。それなのに、この男が魂を
浄めて、死の出立ちの準備が万端整っているときに
送り出す。それで復讐になるというのだろうか。
断じて違う。
ハムレットは、クローディアスが祈りによって魂が浄化されていると考え、復讐を見送ります。そこでクローディアスを殺せば、祈りによって清められたその魂は天国へ行くと考えたからです。クローディアスを地獄へ送り届けるために、クローディアスが救いようのない不道徳な行いをしているときにこそ復讐を実行しなくてはならないと考え、剣を納めます。
ハムレット 剣よ、鞘に戻って、また握られる恐怖のときを待て。
泥酔して眠りこけているとき、情欲にくるっているとき、
近親相姦の床で快楽にふけっているとき、
賭博、罵詈雑言、なんにしろ救いの
気味のひとかけらもない行為のとき、
そこを狙ってこいつを足払い、こいつの踵は天を蹴って
地獄へ真っ逆さま、たちまち魂は地獄の色、
どす黒い呪いの色。さあ、母上がお待ちだ。
この延命薬はお前に苦悶の病の日を重ねてもらうため。 [退場]
しかし、クローディアスは祈りの後に、その祈りが満足のいくものでなかったことを次のように独白します。
クローディアス 言葉は天を目ざすが思いは地にとどまる、
思いを伴わぬ言葉は天に行き着くことができない。
以上がクローディアスの祈りとその殺害を狙うハムレットの場面です。この場面の理解をより明確にするには、人間の生と死における精気の働き、救済における精気の役割を概念としてえることが必要であると思われるのです。なぜなら、先にも記したように精気は目に見えるものと見えないもの、物質世界と神的な世界との媒介となるものだからです。そのためにアガンベンの『スタンツェ』から前回にも引用した箇所とそれに続く文をもう一度見てみます。新プラトン主義における死後の魂と精気のあり方についてです。
肉体が死を迎えたあと、もし魂が物質と手を切る術を心得ているならば、その魂はプネウマという媒介物とともに空へと昇っていく。その反対に、魂が物質から離れられない場合、プネウマ=媒体は重さを増し、まるで貝殻に塞がれて身動きの取れない牡蠣のように、魂は地上へと引きとどめられ、懲罰の場へと連行されるのである。地上での生活においては、プネウマは想像力の道具であり、そのようなものとして、それは夢や宇宙的な感能力、そして予知や法悦といった天啓の主体となる。*2
ここで問題となっているのは、「魂が物質と手を切る術を心得ている」場合と、「魂が物質から離れられない場合」です。前回は「魂が物質と手を切る術を心得ている」あり方として、第五幕第二場のハムレットの死を考察しました。ハムレットはその死において地上に思いを残す事がないように表現されていました。つまりそれは「魂が物質と手を切る術を心得ている」あり方であったわけです。それに対して、亡霊となって現れている父ハムレットは「魂が物質から離れられない場合」として見ることができました。
そして、今回考察する第三幕第三場でもこの「魂が物質と手を切る術を心得ている」あり方と、「魂が物質から離れられない場合」のあり方が、別の形で問題となっています。ハムレットがその場での復讐を思いとどまる時の台詞に、それが現れています。
ハムレット この男が魂を
浄めて、死の出立ちの準備が万端整っているときに
送り出す。それで復讐になるというのだろうか。
断じて違う。
この台詞の中の「魂を浄めて、死の出立ちの準備が万端整っているとき」とは、「魂が物質と手を切る術を心得ている」事にほかありません。つまり、ここでハムレットがクローディアスへの復讐を断念したのは、クローディアスの精気が祈りによって浄化され地上的なものから引き離されており、その場で殺害すれば清められた精気によって魂を天へと送り届けることになると考えたためです。
それに対するクローディアスの方を見てみましょう。クローディアスは神に祈ろうとして苦しむのはその魂が現生から離れられないためです。
クローディアス ばかな、殺人を犯すまでして手に入れたものを
いまも享受しているこのわたしだ、
王冠、野心の対象のすべて、それに王妃。
罪の利得をしっかと握ってしかも許されるというようなことが。
そして神の許しと現生の利得という相反する望みによって、魂は動きが取れなくなります。
クローディアス 魂は鳥もちにかかったように、もがけばもがくほど動きが
とれない。天使たちよ、なんとかこのもがくわたしを助けてくれ。
この台詞の表現は、死後の「魂が物質から離れられない場合、プネウマ=媒体は重さを増し、まるで貝殻に塞がれて身動きの取れない牡蠣のように」という表現に通じます。クローディアスは葛藤しながらもどうにか膝を折り神に祈ります。しかし、祈りを終えた後、その祈りが神に届くことがなかったことを自覚してつぶやきます。
クローディアス 言葉は天を目ざすが思いは地にとどまる、
思いを伴わぬ言葉は天に行き着くことができない。
この台詞の中の「思い」とは、精気の働きの一側面であるという事は「31.クローディアスの懺悔とガートルードの悔悟」で考察したように、この台詞の前提も精気の世界観です。その世界観によって読むなら、クローディアスは前王の殺害によって手に入れた利得から離れられないことで、魂と天との間の媒介者となりうる精気は地上的な重みを増し、その結果、祈りの言葉は天に届かず、魂も救済されないと感じている、となるでしょう。
このように第三幕第三場のクローディアスの祈りの場面は、クローディアスとハムレットの内面で、外からは直接に見る事も聞くこともできない精気についての認識が大きな役割を演じているのです。
次回は、今回の考察を踏まえて『ハムレット』の謎の一つである「なぜハムレットは復讐を先延ばしにしたのか?」という謎を解いていきたいと思います。