ハムレットのシンメトリー

Hamlet's Questions and One Man's Answers

42.ハムレット父と子の霊

 前前回は第五幕第一場の墓掘りの場面の考察をしました。この第五幕第一場にハムレットが登場すると、墓掘りはまずハムレットにとって見ず知らずの人々の遺骨を掘り返します。そして次にハムレットが幼い頃に親しんだ宮廷の道化ヨリックの頭蓋骨を取り上げ、さらには亡くなったばかりのオフィーリアの遺体が埋葬のために運ばれてきます。

「この頭はね旦那、あのヨリックのですよ、王さまお抱えの道化の」「見せてくれ。あああわれヨリック」(第五幕第一場) ドラクロワ 1843年

ハムレットにとって遠い人の古い遺骸から新しく近しい人物の遺体へと死が次第に近づいて来るかのようです。
 この場面を見ると、なんだか仏教絵画の九相図*1を逆にさかのぼっているように感じられるのです。遺骸は棺に埋葬しますので、九相図のような生々しい場面は土の中で進行するわけですが、ハムレットはそこまで観想しようとします。
ハムレット 人間は土の中でどれぐらいで腐るものなのかな?
道化1 そうさなあ、死ぬ前から腐ってなきゃ ― いやね、旦那、今日びは梅毒病みの体がやけに多くってね、墓に納めるまでなかなかもたないんでね。ま、そんなことでもなきゃ、八、九年ってとこかね。*2
 さらにハムレットアレクサンダー大王にに思いをはせた後、諸行無常をかみしめ歌を詠みます。

ハムレット 帝王シーザー死して土芥と化す、

もって孔を塞ぎ風を遮るをいかんせん。

ああ思いきや、往昔全土を畏怖せしめたる一塊の土、

当今破壁を繕い厳冬の朔風を防がんとは。

 

 もはや仏門に入りそうな様子です。しかしこの後登場するのはキリスト教の司祭で、オフィーリアの葬儀が執り行われます。ハムレットは、ここでオフィーリアをめぐって彼女の兄のレアティーズと争い、その後の第五幕第二場のレアティーズとの剣の試合につながります。最終的にはこの第五幕第二場で、死はデンマークの宮廷を飲み込むように王と王妃、レアティーズをも巻き込みハムレットは死んでしまいます。そしてその亡骸はフォーティンブラスの命令によって壇上に安置される事となります。

 この壇上に安置される事になる『ハムレット』の亡骸が、第一幕第一場で胸壁上に現れる父ハムレットの亡霊と対称となっている事は「5.ハムレットの亡霊と息子ハムレットの亡骸」から「8.実体のない存在―語り、亡霊―」で考察しました。

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 しかしそこで考察したのは主に『ハムレット』の構成についてでした。今回はこの第一幕と第五幕によって暗示されていると考えられる霊について考えてみたいと思います。

 ルネサンスの世界観で霊と体を考える時、忘れてはならないのが精気の存在です。なぜなら、これまで見てきましたようにルネサンスの世界観では、霊と体の媒介となるものが精気であったからです。この事によって精気は第一幕と、第五幕が意味するものを解き明かすための媒介となるかもしれないのです。

 この精気は、人間が生きている間は、臓器や血管、脳などをめぐり、精神と身体を媒介するものでした。しかし精気が作用しているのは、人間が生きている間だけではありません。新プラトン主義では、人が死んだ後にも精気に重要な役割が与えられていたのです。アガンベンの『スタンツェ』から新プラトン主義における死後の魂と精気についての記述がありますので、それをここで見てみましょう。

 

肉体が死を迎えたあと、もし魂が物質と手を切る術を心得ているならば、その魂はプネウマという媒介物とともに空へと昇っていく。その反対に、魂が物質から離れられない場合、プネウマ=媒体は重さを増し、まるで貝殻に塞がれて身動きの取れない牡蠣のように、魂は地上へと引きとどめられ、懲罰の場へと連行されるのである。*3

 

ここには精気(プネウマ)から見た人間の魂の死後における二つの道筋が描かれていることがわかります。その意味で第一幕での亡霊と第五幕のハムレットの亡骸と関係が深いと言えます。それを踏まえて、まずは第一幕第五場を見てみましょう。亡霊がハムレットに、自らの死後について明かす台詞です。

 

亡霊 わたしはお前の父親の亡霊だ。

裁きの結果相当の期間夜はこの世をさ迷い歩き、

昼は食を断って浄火の中に籠められ、

生前犯した罪業のかずかずが焼かれ、

浄められるのを待つ身なのだ。

 

 この台詞の最初で亡霊は自らがハムレットの父の亡霊であると宣言しています。原文ではこの役名である亡霊はghost ですが、台詞の中の亡霊はspirit という語が使われています。spirit は亡霊という意味の他に、精神や聖霊、天使などの超自然的存在も意味する言葉ですが、このブログの「22.精気=プネウマ⇒スピリトゥス⇒スピリット≒気」で説明しましたようにラテン語spiritus から派生した語でもともとは精気を意味します。

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つまり亡霊は自らを精気であると言っているのです。そうであればこの台詞を精気の世界観を前提として読み解いていく事は、間違ってはいないでしょう。*4

 そしてこの台詞を先に引用した『スタンツェ』からの文と比べてみると、父の亡霊は「地上へと引きとどめられ、懲罰の場へと連行され」ていることがわかります。つまり精気の世界観から見ると、父ハムレットは魂が物質世界から離れられないため、その精気が重みを増していると考えていいでしょう。

 では次に第一幕の亡霊の場面に対応する第五幕のハムレットの死の場面を見てみましょう。第五幕第二場でハムレットは自らが傷を負った毒塗りの剣でクローディアスを刺したうえに毒を飲ませて殺し、ようやく復讐を遂げます。その後ともに瀕死のレアティーズとハムレットは互いを許しあいます。

 

レアティー ハムレットさま、おたがいに許しあいましょう。

わたしの死も、父の死も、どうかあなたの罪になりませぬよう、

あなたの死もわたしの罪になりませぬよう。

ハムレット 天が君の罪をお許し下さるよう。ぼくもすぐ行くよ。

 

レアティーズは先に死に、自らの死を悟ったハムレットは自分自身の事を正しく伝えてほしいとホレイショーに依頼します。しかしホレイショーはそれを拒否し自分も毒杯を仰いで死のうとします。しかしハムレットはその杯を奪い、もう一度懇願します。

 

ハムレット いいかホレイショー、このまま真相が知られずに過ぎたら、

どんな汚名がぼくの後に生き残ることか。

君が本当にこのぼくを心の友として大切に思ってくれるのなら、

しばらくは至福の死から離れて

過酷な現世の苦しみの生を続け、ぼくの物語を

語ってやってくれ。

 

 このあとフォーティンブラスがこの現場に訪れ、ホレイショーはハムレットの遺言通りにハムレットの物語を語ることになるのです。

 このようにハムレットの死の場面を見てみると、その死にあたってハムレットは現世への思いを残さぬように描かれているように見えます。父の復讐を遂げて、レアティーズとともに許しあい、ポローニアスの殺害の罪についてもその許しをレアティーズに祈ってもらっています。そして遺言通りに後世のためにハムレットの物語はホレイショーによって語られることになるわけです。

 つまりハムレットの死は、ハムレットが物質世界への思いを残さぬように描かれており、これによって精気の世界観から見れば、ハムレットの魂は物質から解放され軽くなった精気によって天に召されるように描かれているのです。

 おそらく、ハムレットの死をこのように描くことによって、父の亡霊のあり方と対照とし、この二つの姿に死後の精気が物質の影を帯びたあり方と、物質から解放されたあり方を表現したものと思われます。

 しかし父の亡霊(スピリット―精気)が舞台に演出されているのに対して、第五幕ではハムレットの死の後は亡骸としてのハムレットが演出されているだけで、死後の精気などは直接的には描かれていません。そのためこれを死後の精気のあり方を表現したなどとは認めにくいかもしれません。

 これについては、父の亡霊(スピリット―プネウマ)が物質世界から離れられず、重みを帯びているがゆえに亡霊として物質世界に見えるものとなっているのに対して、ハムレットは死に際して思い残すことなく、そのために精気は物質世界に残ることなく、もはや物質世界では見ることも感じることもできないのだ、ということができます。つまり、ハムレットの死後の精気についてはまったく演出されないということが、この二つの精気の様態を対照的に描く正しい形であるといえるのです。そしてこの精気のあり方もまた、見えるか、見えないか、あるいは現れているか、そうでないか、というあのクエスチョン”To be, or not to be, that is the question.”を思い起こさせるのです。

 

*1:屋外に打ち捨てられた死体が朽ちていく経過を九段階に分けて描いた仏教絵画

ja.wikipedia.org

*2:ハムレット』の引用は、大場建治訳、注解 シェイクスピア選集8 ハムレット 研究社 2004年から

*3:ジョルジョ・アガンベン 岡田温司訳 『スタンツェ』 ちくま学芸文庫 2008年 189ページ

*4:ghostは主に幽霊、亡霊といった意味ですが、英和辞典でghostを見てみると、古語としての用法で霊、聖霊the Holy Ghost”といった意味があげられており、spiritと意味が重なっていたようです。「霊、魂、体」は英語では、”spiritsoul, body” ですが、独語では”Geist, Seele, Leib” となり、ghost と語源を同じくするGeist が霊の意味で使われます。spirit ラテン語を語源として気息の意味がありましたが、 ghostの方はゲルマン祖語を語源として死者の魂、人間の心を意味していたようです。『ハムレット』は北欧の伝説と南のルネサンス文化が入り混じっているのですが、この亡霊の台詞だけでもそれが見られるようで興味深いと思います。

この注に関してこちらのサイトを参考にさせていただきました。

information-station.xyz

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