ハムレットのシンメトリー

Hamlet's Questions and One Man's Answers

28.歌は精気にどのように作用するか

 前回は、ハムレットの手紙とその詩とオフィーリアの歌う歌を、対称に描かれているものとして、その手紙と詩を心の内を他者に伝えるための媒体として考察しました。今回は、前回考察したこの過程をルネサンス思想の下に、読み直してみたいと思います。

 このブログで、たびたび登場していますマルシリオ・フィチーノは、その著書『三重の生について』(De Vita Triplici, 1489 ) で、知識人の健康と養生について論じていますが、その養生のための処方として、音楽にとても重きを置いています。フィチーノの理論の中心となるのは、前前回の記事、26.ルネサンスの憂鬱質 - ハムレットのシンメトリー,   22.精気 = プネウマ ⇒ スピリトゥス ⇒ スピリット ≒ 気 - ハムレットのシンメトリーで見たように人体における精気の役割でした。

 

このスピリトゥスは、医学者たちによって血液の蒸気、純粋かつ微細で、熱く澄んだものと定義されている。そして、その心臓の熱によってより微細な血液から生じると脳へ上昇し、そこで魂は外感覚と同様に内的感覚を動かすためにスピリトゥスをたえず用いる。それゆえに、血液はスピリトゥスに仕え、そして最後に感覚は理性に仕える。*1

 

このスピリトゥス、精気は、ワインやシナモンなどの香料、良い香りのする場所といった、蒸気となった芳香によって養われます。こうした植物由来の蒸気より、音楽はそれが空気を媒体とすることによって、よりダイレクトに精気に作用します。スピリトゥス、精気がもとは息や大気を意味していたことからもそれは推測できるでしょう。

 

単なる植物の生命の気化したものが皆さんの生命にとって大いに有益だとすれば、空気のごとき〔霊妙な〕音楽はまったく空気のごとき精気にとって、調和のとれた歌は調和のとれた精気にとって、温和でいきいきした歌は生者にとって、感覚を与えられた歌は敏感な人にとって、さらに理性によって生み出された歌は理性的な人にとって、どれほど有益であると思われますか*2

 

 そして歌は、歌い手と聴き手の精気に作用して、情感や身振りを共有させます。さらに天上的なものを歌い伝えることによって、歌い手と聴き手の精気に天上のものの影響を呼び込むことができるのです。

 

歌がすべてのものの中で最も強力な模倣者であることを覚えておきなさい。それは、言葉と同様に、魂の志向と情感を模倣する。それはまた、人間の身振り、運動、行為を性格と同様に表し、これらすべてを熱心に模倣し、実行し、その結果、即座に、歌い手と聴く者に、同じことをおこなうように鼓舞する。同じ力によって、それが天上的なものを模倣するとき、それはまた、われわれのスピリトゥスを天上的な影響へと上昇させ、天上的な影響をわれわれのスピリトゥスへと驚くべき仕方で降下させる。*3

 

 実際にフィチーノは歌によって天上的なもの、つまり惑星や十二宮を模倣し、これによって治療を施していました。具体的には竪琴と歌唱によっていたようです。

 以上のような、歌による精気への影響の仕方をみますと、オフィーリアの歌う歌が、聴き手に対してどのように作用したか、あらためて見る事ができるでしょう。前回は、オフィーリアの歌う歌を、ハムレットの詩と比較して、以下の表を用いて考察しました。 

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 これを歌と精気との関係の認識のもとに読み直すと、以下のようになるかと思います。

 

 オフィーリアの混乱した魂は動脈内を流れる精気に影響を与え、彼女の呼吸と心臓の鼓動を乱す。その心臓から脳へと上昇した生命の精気は脳内で霊魂の精気となり、さらに脳の第三の房室で記憶として保持されている恋歌の表象像を喚起する。そしてオフィーリアがその恋歌を歌う時、生命の精気は心臓から喉頭へ到り、空気に振動を与え歌として流れ出る。彼女のその歌と歌う姿は、その場にいる者たちの目と耳を通して精気を刺激する。目を通して刺激された精気は脳の第二の房室へ到り、オフィーリアの表象像を形成する。それと同時にオフィーリアの歌は耳を通して生命の精気を刺激し、聞く者の心臓の鼓動と呼吸に影響を与え、オフィーリアの情動を魂に刻印づけるのである。

 

 前回の記事で、この場面を表で示した際には、オフィーリアの心をNot to be、歌われている歌をTo be として、歌が受け手の心に届くまでを見ました。そこではオフィーリアの心、外の世界で聞かれるように響く歌、受け手の心は、それぞれが別の領域となり、分断されたものでした。しかし、これを上記のように精気を主体とすることで、その流れを魂から身体、外界、そして受け手の身体から魂へと、一貫したものとしてたどる事ができるようになる事がわかります。

 このオフィーリアの歌う歌は、ハムレットの手紙の中の自作の詩と対称関係にあります。オフィーリアの歌う歌が、精気の世界観によって読むことができるなら、それと対称関係にあるハムレットの詩は精気の世界観とどのような関係を持っているのでしょうか?

 まずはもう一度、ハムレットの手紙の中から、その自作の詩とそれに続く部分を見てみましょう。

 

   星々の火なるを疑うとも

   太陽の動くを疑うとも

   真実を嘘つきならんと疑うとも

   ゆめ疑うなかれわが愛を

 

ああ愛するオフィーリア、ぼくはこうした詩は苦手だ。溜息の数を数えて詩の平仄に合わせる素養がないのだ。だが、あなたをこの上なく、ああこの上なく愛していることだけは信じてほしい。さよなら。

この体の機能しうる限り、ああいとしい人よ、永遠にあなたのものである。 

ハムレット*4 

 

 この詩の1行目と2行目は天体がモチーフとなっています。「太陽の動くを疑うとも」という節には、コペルニクス天文学からの影響を見る事ができます。コペルニクスの『天球の回転について』が出版されたのが1543年で、ガリレオ裁判が1616年ですから『ハムレット』の書かれた時代は、人々の認識が天動説から地動説に転換する渦中だったと言えるでしょう。

 コペルニクス天文学が、現代の天文学の礎を築いたことには、誰も異論はないでしょう。そして現代の天文学においては、星々はガスや岩石からできていると言われていますが、古代ギリシアからの天文学においては、星々はプネウマ、つまり精気からできているとされていました。

ゼノンやクリュシッポスの思惟において、プネウマこそ物質の根源、すなわち発光する繊細な物質であるが、それはまた火と同一である。これが宇宙の隅々まで充満し、多かれ少なかれあらゆる存在に浸透し、成長や感覚の原理を形作っている。この神的な火という「職人」はまた、太陽やその他の天体の本質でもあるため、動植物の生命を司る原理は天体と同じ生命を有し、その唯一の原理こそが宇宙に活力を与えていると言える。この気息あるいは火は、各人の中に宿って生命を賦与する。つまり個々の魂は、この神的原理の断片にほかならないのである。*5

 

 ここからわかるのは、ハムレットの詩の第一行目の「火」とは、天体の本質としての精気であるという事です。つまりこのハムレットの詩においては、天動説とともに精気としての天体の本質に疑いがかけられているのです。精気論的宇宙観が疑われてきたこの時代、かわりに現れたのが機械論的宇宙観です。シェイクスピアの同時代人であるヨハネス・ケプラーは1609年に出版されたその主著『新天文学』の中で以下のように記しています。

私の目的は、天体の機械が、神的な種類のものではなく、魂のある存在でもないということを示すことである(時計が魂をもつと信ずるものは、これにその製作者の資質を賦与するものである)。あたかも時計の運動が単純なおもりによるものであるように、天体のあるゆる複雑な運動は、一つの単純な、磁気的な、また物質的な力が原因である。同時に私の目的は、これらの自然科学的諸原因を、数学的、幾何学的に表現する方法を示すことにあった。*6

 

 ここに至って天体は機械とみなされ、かつてはフィチーノが竪琴と歌唱によって、そのハーモニーを奏で人々を治療した、その精気の源たる惑星たちは、神々と何の関係もないものとなったのです。

 天体が機械と見なされ、天体から精気の存在が駆逐されれば、天に由来する精気が自らの身体に流れ生命を与えているという見方はできなくなり、生命を持った身体も機械論的に見ざるを得なくなります。

 ハムレットはオフィーリアにあてた手紙の結びの言葉で「この体の機能しうる限り」"whilst this machine is to him"という言葉で、自身の体を"machine"と見なしています。機械は動力で動くものであり、もはや精気によって生かされていることを感じ取ることができなくなった身体が暗示されていると言っていいでしょう。『ハムレット』が出版された約150年後のフランスにおいて医師のラ・メトリーが『人間機械論』という著作を出版していますが、ハムレットの手紙に見られる精気への懐疑とこの「機械」"machine"という単語は、ラ・メトリーの『人間機械論』に至る萌芽と言うことができるのではないでしょうか。

 ここまでは、ハムレットの詩の内容について精気との関係を見てきましたが、次に詩一般と精気との関係を見てみましょう。前回、イーリアスオデュッセイアを例にあげて、その長短短の六歩格のリズムが人間の安静時の呼吸と脈拍のリズムと合致することから、詩の韻律と身体のリズムの関係について触れました。これによって韻律は、呼吸と脈拍を通して生命の精気に作用すると言うことができるでしょう。この韻律は詩神ムーサからもたらされたものとされ、イーリアスオデュッセイアの冒頭ではムーサへの呼びかけから始まっています。この詩とムーサとの関係はフィチーノの時代にも、まだかろうじて保たれていたようです。

 

われわれのプラトンは『イオン』と対話篇において、詩人たちが神的な音楽とムーサイの狂気に満たされて歌った詩句だけが神的であると考えている。そして、これが人間の音楽として歌われるときには、歌手も聴衆も狂気に捕らわれる。……したがって、ブラッチェージよ、あなた自身の詩は、あなたの少なからぬ勤勉さよりもむしろ、ムーサイの霊感に負っているのだ。*7

 

 このような神的存在と詩との関係は中世においても、ダンテの『神曲 煉獄篇』にも見る事ができます。

 

そうして私は彼にこう言った「アモルが私にささやくとき、

私はしるし、アモルが私の内に書きとらせるままに、

表していく、私とはそういう者であります。」*8

 

 アモルとはローマ神話の愛の神ですが、ジョルジュ・アガンベンは『スタンツェ』の中でこの詩節について以下のように論じています。

この詩節の注釈は一般に、「アモルが私にささやく」という表現を、「霊感を与える」という動詞が近代の用法の中で保持してきた漠然とした隠喩に従って解釈しようとする意味論的な暗示になおも縛られている。そうではなくて逆に、隠喩的意味と本来の意味がいまだ区別されないプネウマ論の文化のコンテクストの中に、この表現を置きなおしてみる必要があるのである。前の各節でわれわれは、プネウマ的な心理・生理学の分野では、愛‐アモル‐が「ささやく」とはいかなる意味においてかを十分に示してきた。それ故もはやこの点を強調する必要はないだろう。アモルは「ささやく」。なぜなら、アモルは固有の意味で本質的に「精気の動き モート・スピリトゥアーレ」(ダンテの表現を使うならば)だからである。*9

 

 再びハムレットの手紙を見てみると、ハムレットにはこのようなアモルのささやきを、つまり「精気の動き モート・スピリトゥアーレ」を書きとることはできないことがわかります。

 

ぼくはこうした詩は苦手だ。溜息の数を数えて詩の平仄に合わせる素養がないのだ。

 

 ハムレットにとって詩作とは、愛による精気の動きを言葉によって表現することではなく、溜息を数えて平仄、つまり韻律に合わせる事であり、もはやそのような技術も持っていないと記しているのです。

 こうして見ると、このハムレットの短い手紙の中には、天動説と精気論的な天文学への疑惑、機械論的な人間観、さらに詩から精気的なものが失われた事態が表現されていることがわかります。それらは一言で表現すれば、反精気論と言うことができるでしょう。

 シェイクスピアの時代はコペルニクスの地動説、宗教改革を経て、後の科学革命の前夜とも言える時代であり、それまでの古代ギリシアから受け継がれてきた精気論をはじめとする世界観に、大きな揺さぶりがかけられた時代でした。『ハムレット』において、この時代の変革もまた一つの大きなテーマなのです。これについてはまた後に取り上げることになるでしょう。

 次回は、このオフィーリアの歌う歌とハムレットの詩を、別の切り口でさらに読み込んでみたいと思います。

 

 

*1:マルシリオ・フィチーノ 『生命について』第一巻「健康な生について」 伊藤博明 マルシリオ・フィチーノにおける音と音楽(2) 

*2:マルシリオ・フィチーノ 『生命について』第二巻「長い生について」 D.P.ウォーカー 田口清一訳 『ルネサンスの魔術思想』ちくま学芸文庫 2004

*3:マルシリオ・フィチーノ 『生命について』第三巻「天上から生を得ることについて」 伊藤博明 マルシリオ・フィチーノにおける音と音楽(2) 

*4:ハムレット』の引用は、大場建治訳、注解 シェイクスピア選集8 ハムレット 研究社 2004年から、以下同様

*5:ジョルジュ・アガンベン 岡田温治訳 『スタンツェ』 ちくま学芸文庫 2008 

*6:アーノルド・ハウザー 若桑みどり訳 『マニエリスム 上巻』岩崎美術社 1970

*7:フィチーノから詩人のブラッチェージ宛の書簡から 伊藤博明 マルシリオ・フィチーノにおける音と音楽(2) 

*8:ジョルジュ・アガンベン 岡田温治訳 『スタンツェ』 ちくま学芸文庫 2008 

*9:ジョルジュ・アガンベン 岡田温治訳 『スタンツェ』 ちくま学芸文庫 2008