ハムレットのシンメトリー

Hamlet's Questions and One Man's Answers

40.土星の子供としてのハムレット

 今回取り上げる場面は、このブログでこれまでほとんど取り上げてこなかった場面です。それは第五幕第一場の道化の墓掘りが登場する場面です。第五幕第一場は前半と後半に大きく分けることができます。前半はこの墓掘りたちの場面で後半はオフィーリアの葬儀の場面です。オフィーリアの葬儀に関しては21.弔いと結婚、記憶と思いの記事で考察しました。

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墓掘りたちの場面はシンメトリーのペアに入っていなかったためこれまで取り上げることがなかったのです。 

 しかしこの墓掘りたちが登場する場面は、ルネサンス思想、憂鬱質と占星術、新プラトン主義によって解かれる謎となぞなぞに満ちていて非常に興味深いものなのです。これまでの考察で『ハムレット』がこれらルネサンス思想と深い関係を持っているということがわかりました。これらは墓掘りたちの場面を考察する前提ともなるものです。そのため以前の記事と重複するところもあるのですが、この場面と関係が深いマルシリオ・フィチーノとその憂鬱質について、再確認したいと思います。*1

 マルシリオ・フィチーノは当時の最悪の気質といわれていた憂鬱質に悩まされていました。それというのも、フィチーノの憂鬱質は彼の出生天球図によって裏付けられていたからです。当時の医学は占星術と一体となったものであり、医師でもあったフィチーノは天球図を読むこともできました。フィチーノの出生天球図の上昇宮は宝瓶宮で、その中央に土星が位置しており、土星は、宝瓶宮の支配星であるため、宝瓶宮にある土星はその影響力を一層強めることになります。さらに土星は太陽と水星に90度の位置で影響を与えていたです。*2

 占星術土星は凶星とされており、憂鬱質の星でもありました。そのため土星の影響力が強く読み取れる自らの出生天球図を見てフィチーノは一層憂鬱になったのでしょう。しかし、フィチーノ土星と憂鬱質の肯定的な価値を取り上げることで、これを克服します。このような認識のもとに、学者や文人のための憂鬱質の治療に関して記した『三重の生について』を刊行するのです。

 それによると土星は惑星の中で最高位の天球にあり、それゆえに土星に対応する黒胆汁は思考をその対象の中心にまで貫入させ、探求するように仕向け、精神を外部からの刺激や自分の身体から引き離し超越的なものへ近づけようとするといいます。しかし同時に深遠な思索にふける思索家が憂鬱質に苦しめられる恐れもあるです。このような憂鬱質の両極的な性質は『ハムレット』第二幕第二場のローゼンクランツとギルデンスターンに対してのハムレットの台詞に見ることができるでしょう。

 

ハムレット  ぼくはね、胡桃の殻の中に閉じ込められてもいても、無限の宇宙の支配者だと思っていられる人間だ。ただ悪い夢にくるしめられているものでね。*3

 

 フィチーノ土星のもとに生まれた故に憂鬱質でした。しかし学者や思想家は出生時の星位によってでなくとも、その知的活動によって憂鬱質に苦しむ恐れがあるといいます。ハムレットはどうでしょうか。ハムレットは父が死ぬ前まではウィテンベルク大学の学生でした。しかし、文人であるとは書かれておらず、むしろ武人であったとも書かれている。しかしかなり思索的な性格であるのは事実です。ハムレットの出生天球図を作ることはできないにしても、その出生に関しては第五幕第一場に書かれています。

 第五幕第一場では墓掘りである道化に、ハムレットが誰の墓を掘っているのだと聞くが、適当にはぐらかされてしまいます。そこでハムレットは質問を変えて、墓掘りになってどれくらいになるかと訊ねます。

 

道化1    一年三百六十五日ある中で、あっしがこの仕事を始めたのは先の代のハムレット王がフォーティンブラスをやっつけた日で。

ハムレット  それから何年になる?  

道化1    ご存じねえんですかい。どんな阿呆でも知っているとも。ありゃハムレット王子様がお生まれになった日だ。頭がおかしくなってイギリスに送られた方だ。

                          :

                          :

道化1    あっしは餓鬼の時分から三十年ここで寺男やってますんで。

 

 

 この一連のやり取りから、道化1の墓掘りが墓掘りになったのは、父ハムレットが父フォーティンブラスを打ち倒した日であり、その日にハムレットが生まれている事、そしてそれは30年前である事がわかります。これらからハムレットの年齢が30歳であると推測されるのです。ハムレットは父が亡くなる前までは、ウィテンベルク大学の学生でした。当時でも30歳の大学生には違和感があるため、この年齢設定は謎とされています。

 しかし、この30歳という年齢設定は、土星との関係で解き明かすことができると思うのです。それと言うのも、この30歳とは土星の公転周期29.46年とほぼ一致するからです。土星は約30年かけて黄道上の同じ位置に戻ります。ハムレット30歳であるということは、その時の土星の位置が、出生時の位置と同じだという事です。これは占星術では、出生天球図上の土星と現実の土星が合の角度を形成することで、土星の働き、影響が強まることとなります。土星の影響が過剰になるということは、黒胆汁が過剰となる、つまり憂鬱質です。つまりこのハムレット30歳という年齢設定は、土星の影響下による憂鬱質という設定のための年齢であると考えられるのです。*4

  土星の影響下にある人々は「土星の子供たち」と呼ばれ、憂鬱質で陰険で、障害者、乞食、木こり、罪人、墓堀りなどになるとされていました。『ハムレット』第五幕第一場には墓掘りが出てきますが、これは土星の子供たちの代表ともいえるでしょう。そして、そこに登場するハムレットフィチーノ以降、土星の子供たちに取り入れられた思索的な憂鬱質なのです。

 第五幕第一場は、道化である二人の墓堀人夫が登場し、しゃべりながら墓を掘るところから始まります。実際の『ハムレット』の上演で舞台上に土を盛る事は、ほとんどないでしょうが、この第五幕第一場は憂鬱質の元素である土がどの場面よりも表現されています。

 

道化1  おい、そこの鋤を貸しな。古い家柄の身分ある紳士はお前、みんな庭師とどぶ浚いと墓掘りってことになっている。なにしろアダムさまのご職業をお継ぎあそばしてるんだからな。

 

 庭師、どぶ浚い、墓堀りといった土に関する仕事は、尊敬されるわけでもなく、むしろ蔑まれることの方が多かったでしょうが、これはアダムの仕事を受け継いでいるが故に、由緒正しいものなのだと道化1の墓掘りは言います。

 この墓掘りが言う「アダム様のご職業をお継あそばしてる」者たちの価値の転換は、ルネサンス期に憂鬱質と土星に関して起こった価値の転換に符合するように思われます。それまで憂鬱質は最悪の気質であり、土星は凶星であったため歓迎されることはありませんでした。しかしフィチーノによって、土星は当時に知られていた惑星の中で最高位の天球にあり、それゆえに最高の事物を探求する哲学者や芸術家の惑星と見なされるようになりました。そしてその影響下の憂鬱質も学者や芸術家、天才の気質として認知されるようになります。道化1の墓掘りは道化らしくしゃれを交えて冗談のように語りますが、そこには「土星の子供たち」の復権が重ねられているのではないでしょうか。

 

道化2  アダムってのは紳士だったのかね?

道化1  紋所つきの最初の土地持ちだ。

道化2  まさかそんな。

道化1  おや、お前さん異教徒かよ、なんて聖書の読み方をしてるんだ、聖書にちゃんと書いてある、「アダム掘りたり」ってな。紋所つきの土地持ちだからじゃねえのか、え、土地がねえのに掘れるもんかよ。

 

 道化1が言う聖書の記述「アダム掘りたり」とは、聖書のどこに書かれているのでしょうか。それは創世記第三章二十三節であると思われます。そこには「そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた」とあります。これは楽園追放の場面であり、追放されたアダムは死すべき存在となるわけです。つまりこの「アダム掘りたり」とは人間の死ととても密接な意味が含まれているのです。その意味においても墓掘りはまさにこのアダムの職業を受け継いでいるのです。

 また、その前の第三章第十九節には「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」 とあります。これは第二章第七節の「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」を踏まえたものですが、そこには「命の息」の記述はありません。むしろ執拗に人は土に過ぎないとたたみかけているようです。そして、これが『ハムレット』第二幕第二章のハムレットの台詞の「塵の第五精髄」と関連が深い聖書の記述です。人間は土から作られたのだから、土にすぎない。ハムレットにとっては、かつて永遠のものとして探求された第五精髄さえも塵なのです。

 聖書の記述では、アダムが耕したのは、人が造られたその土だといいます。そして、この墓掘りたちが掘るのは、人が死に土に還っていったその土です。ハムレットは、この第五幕第一場で、土に還っていく人のかつての生に、その遺骨から思いをはせることになります。

 この後、道化1は道化2になぞなぞを出します。

 

道化1 ようし、もう一つ訊いてくれる。ちゃんと答えられねえのなら、懺悔して首くくって―

道化2 縁起でもねえ、よしてくれよ。

道化1 いいか、石屋よりも、船大工よりも、大工よりも頑丈な家をこさえるのはだれだ?

道化2  絞首台づくり。あの木柱じゃ店子が千人入れ替わったってびくともしねえ。

 

 「土星の子供たち」は貧民や障害者など蔑まれる人々の他、大工など測量技術を必要とする職業も含まれていました。そして、絞首台に掛けられる罪人も「土星の子供たち」です。

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サトゥルヌスと彼の子供たち 15世紀中葉


 15世紀中葉の「土星の子供たち」の絵を見ると、手前にどぶ浚いのような人物と障害者、真ん中に農夫が、遠景には絞首台に掛けられた人物が描かれていることがわかります。道化2が答えた絞首台づくりも「土星の子供たち」であっても、なぞなぞの答えとしては不正解でした。道化1は答えられなくなった道化2に対して、答えを明かします。

 

道化1  いいか、今度訊かれたら墓掘りって答えな。墓掘りのこさえる家は最後の審判の日までもつんだ。 

 

 この台詞の最後の審判までもつ「墓堀りのこさえる家」とは、遺体を葬った墓の事を言っているのでしょうか?そうとは思えないのです。なぜならこの台詞の後、墓掘りは歌を歌いながら墓を掘り返し、そこから頭蓋骨を放り投げているのですから。最後の審判までもつ、という自らの言葉を否定し、その矛盾を示すかのように。

 これまで考察してきたように『ハムレット』はルネサンスプラトン主義の影響が強く見られます。新プラトン主義やグノーシス主義などにおいては、肉体は霊を幽閉した牢獄、あるいは墓に例えられます。それを踏まえると、この道化の言葉の最後の審判までもつ家とは、土に遺体を葬った墓ではなく、土に霊を葬った肉体のことを意味しているのではないでしょうか。そのように考えると、墓掘りの意味も変わってきます。遺体を埋葬するための墓掘りから、肉体に霊を葬る、つまり出生に関わるものとなります。墓掘りがハムレットの出生について語るのもつじつまが合うのです。

 また「 墓掘りのこさえる家は最後の審判の日までもつんだ」という言葉の最後の審判の意味も変わってきます。この最後の審判とはキリスト教的な世の終わりの審判ではなく、エジプトや東洋にみられるような、死後の裁きであるように思われるのです。

 この「最後の審判の日」は原文ではdoomsdayとなっています。この同じ語は第一幕第一場のホレイショーの台詞にも使われていました。亡霊が一度退場し、再び姿を現す直前の台詞です。*5

 

ホレイショー  かの大シーザーが倒れる直前の話だがね、

墓という墓が空になり、死者たちは白い経かたびらで

ローマの街なかをきいきいわめいて通ったという。

星は火の尾を引いて血がしたたり落ちる、

太陽は凶相を帯びる、大海原の満干を

支配するみずみずしい月も

蝕となって光を失いこの世の終わりさながらだった。

Was sick almost to doomsday with eclipse;

 

 「この世の終わり」として訳されている原語がdoomsdayですが、このホレイショーの台詞でも墓場からよみがえった死者のイメージがdoomsdayという語にともなっています。言うまでもなくキリスト教最後の審判の復活のイメージです。

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マルセイユタロット XX.審判

 タロットカードの審判のカードにも墓から死者がよみがえった絵柄が描かれており、このイメージは、当時のほとんど全ての人に共有されていたものでしょう。しかしもともとはdoomという語は判決や裁きといった意味だったといいます。このdoomという単語は第一幕第五場で亡霊がハムレットに語る台詞の中にも見ることができます。

 

亡霊  裁きの結果相当の期間夜はこの世をさまよい歩き、

GHOST Doomed for a certain term to walk the night,

 

 ここでは明らかに死後の裁きという意味でdoomという語が使われています。この事から考えても、第五幕第一場で墓掘りの台詞の中のdoomsdayが死後の裁きを意味しているとしてもおかしくはないでしょう。むしろdoomsdayキリスト教的な最期の審判のイメージによって死後の裁きという意味を覆い隠しているのかもしれません。この墓掘りが出したなぞなぞは二重のなぞなぞだということができるでしょう。

 このようにdoomsday 最後の審判という言葉の正統なキリスト教での意味の裏に、非正統的な意味が隠されて表現されているとしたら、それはシェイクスピアが異端的な信仰の持ち主でその信仰を隠しつつ表現した、などと考えることもできるかもしれません。小説や映画などでもおなじみの設定のため、そのような解釈はたやすいかもしれません。 

 しかしこれはむしろ新プラトン主義とキリスト教における魂と死後の復活の教義がはらむ問題が表されているのではないかと思われるのです。これまで見てきたように、プネウマ論をはじめ四体液説など、ギリシアに由来する多くがルネサンス期にはキリスト教に取り入れられていきました。マルシリオ・フィチーノプラトン全集の翻訳をした後『プラトン神学』を記し、キリスト教プラトンの思想の融合を図ります。しかし完全な融合には至らず、その著書の中には矛盾もあったのです。

 

だが、キリスト教徒であり司祭にもなった、ルネサンスプラトン主義者フィチーノがこの論を展開するには難題が待ちかまえている。というのも、肉体をともなうキリスト教的復活とプラトン的な霊魂の不死の間には、大きな隔たりが横たわっているからである。フィチーノはまず書の冒頭で、肉体は魂の牢獄であり、人間にわざわいをもたらすものと捉えて、読む者に強烈な印象を与える。これはきわめてプラトン的な言説であろう。書の中途でも、肉体からの解放が不完全なかぎり、人間の目的である神への霊魂の上昇が一時的で不如意に終わる事を指摘する。にもかかわらず最後には、霊魂だけの不死ではなく心身が一体となった、われわれの甦りを語ることになる。これは間違いなくキリスト教的である。これは一見して矛盾でなくなんであろう。*6                                          

 

 プラトンは『パイドロス』において肉体(ソーマ)は魂の墓(セーマ)であるとしました。一方、キリスト教では肉体は死後に墓から蘇るとしています。このようにこの両者がそれぞれ意味する肉体、死そして墓の関係は全く異なるものです。また、死後の審判についても、ギリシアでは死後に冥界において生前の行いが裁かれるとされるのに対して、キリスト教では世の終わりに地上で復活した死者たちが生前の信仰が裁かれます。

 これらを論理的に統合することはできないでしょう。フィチーノでさえ、その矛盾に目をつむるしかありませんでした。しかしシェイクスピアは修辞的な荒業によって、この矛盾を『ハムレット』の道化1のなぞなぞの答えの中のdoomsdayという単語の中に、キリスト教的な最期の審判と、ギリシア的な死後の裁きの意味を含ませることで一つにしたということができるのではないでしょうか。そうであるとしたら、シェイクスピアルネサンスプラトン主義をその問題点も含めて深く理解していたのかもしれません。

 



 

*1:フィチーノと憂鬱質に関してより詳しくは26.ルネサンスの憂鬱質に書いてあります。

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*2:伊藤博明『ルネサンスの神秘思想』〈2012講談社学術文庫289293ページ

*3:ハムレット』の引用は、大場建治訳、注解 シェイクスピア選集8 ハムレット 研究社 2004年から

*4:この30歳ごろに土星が出生天球図のもとの位置にもどることは、占星術でサターン・リターンと呼ばれており、価値観の転換が強いられたり、克服すべき課題に直面せざるを得ないなどの意味があり、ハムレットの状況と重なります。

*5:以下のホレイショーの台詞はQ2にはあるものですが、F1にはありません

*6:根占献一、伊藤博明、伊藤和行、加藤守通『イタリア・ルネサンスの霊魂論』三元社 1995年 19ページ