ハムレットのシンメトリー

Hamlet's Questions and One Man's Answers

26.ルネサンスの憂鬱質

 前回は、フォーティンブラスが粘液質を、レアティーズが胆汁質を表しているらしい事を指摘し、四体液質がそれぞれどの人物に描かれているかを見ました。今回は『ハムレット』のテーマの一つでもある憂鬱質が、どのような背景を持っているのか、ルネサンスの憂鬱質について見ていきたいと思います。

 ルネサンスの憂鬱質の説明をするためには、まず当時の医学において四体液質がどのように働いたかという事をみなくてはなりません。

 四体液質は古代ギリシアの医学から継承されたもので、エンペドクレス、アリストテレス四大元素説をもとにしています。前回も触れましたが、これは火、水、風、土の四つの元素です。これらはそれぞれ熱、冷、湿、乾の性質を持っています。火は熱く乾いており、水は冷たく湿っていて、風は熱く湿っていて、土は冷たく乾いている、という性質があります。

 さらにそれぞれの気質は、当時の占星術での惑星とも結びついていました。胆汁質は火星、粘液質は月(または金星)、多血質は木星、憂鬱質は土星と関係を持っています。これらの惑星のうち土星と火星が凶星とされていました。

 

 以上をまとめると以下のようになります。

 多血質: 風(熱・湿) 木星

 胆汁質: 火(熱・乾) 火星

 粘液質: 水(冷・湿) 月

 憂鬱質: 土(冷・乾) 土星

 

 当時は占星術も医療と結びついており、これらによって診断と治療がなされていました。例えば診断では出生天球図の惑星の配置によって過剰に働いている惑星があれば、関連する体液が過剰になりがちであると判断されたのでしょう。それが胆汁質であれば、過剰に熱く乾いている気質を、冷やし湿らす薬草などが処方されました。

 さて、これら四つの気質のうち、もっとも嫌がられていたのが、憂鬱質でした。なぜなら憂鬱質を支配する惑星である土星は、太陽から最も遠く動きも遅い凶星であり、それ故に憂鬱質は七つの大罪のうちの怠惰に結びつけられたのです。憂鬱質を描いた中世の木版画を見ますと、頬杖をついていたり机に突っ伏していたりと、何ともやる気のなさそうに描かれています。

f:id:ethaml:20211105114214p:plain

        憂鬱質

 

 お二人とも二日酔いか何かのようです。治療が必要ですね。これは15世紀の版画ですが、16世紀には後に憂鬱質を描いたもっとも有名な作品となる銅版画がアルブレヒト・デューラーによって描かれています。それが『メレンコリアⅠ』です。

 

f:id:ethaml:20211105114905p:plain

 アルブレヒト・デューラー『メレンコリアⅠ』

 

 頬杖をつく伝統的な憂鬱質のポーズを取っていますが、まったく雰囲気が違います。少なくとも怠けものではなさそうです。体は活動していなくとも精神は何かを見据えているようです。誰もこの人(天使)の憂鬱質を治療しようとは思わないでしょう。そしてあたりに散らばる物品や壁面に描かれた魔法陣、風景が謎めいた雰囲気を醸し出しています。実際、この絵画については多くの謎ときが試みられています。

 この『メレンコリアⅠ』以降の憂鬱質を描いた絵画は、この銅版画の影響が見られるようになり、七つの大罪の怠惰の雰囲気は影を潜めます。『メレンコリアⅠ』は、それ以前の憂鬱質を描いた絵画と明らかに違う何かがあるのです。それはデュ―ラーの発明なのでしょうか?そうではありません。この2つの絵画の間には憂鬱質に関して、革命的な転換があったのです。いったい15世紀と16世紀の間に何が起こったのでしょう。

 それはこのブログの22.の精気に関しての記事でもふれたマルシリオ・フィチーノによってなされたのです。マルシリオ・フィチーノ15世紀イタリアルネサンスの人物で、その数多い業績の一つとして原典からのプラトンプロティノス、ヘルメス文書の翻訳があげられるでしょう。これによって、ルネサンスに新プラトン主義が開花し、その後の文芸、芸術に多大な影響を与えることとなります。

 そのフィチーノが憂鬱質に悩まされていたのです。もともと体が丈夫な方ではなく、自らその憂鬱質を自覚していました。当時の最悪の気質です。さらに彼の出生天球図がそれを後押しします。フィチーノが生まれた時は、土星の夜の宮である宝瓶宮が東の空から昇り、その宝瓶宮には土星が位置していました。さらに土星は太陽と水星に90度の位置で影響をおよぼしていました。これは土星の支配が強く、要するに憂鬱質の星の下に生まれたという事です。*1そしてこの事が、さらにフィチーノを憂鬱にしました。きっと机に突っ伏してうんざりしていたのでしょう。

 この憂鬱にさせる天体配置を、フィチーノは友人のカヴァルカンティにあてた手紙で嘆いています。これに対してカヴァルカンティは返信によって反論しています。神の如きプラトンも同じ星相にあり、君を際立たせている賢さ、学識、古代哲学の革新は全て土星からの賜物なのではないかと。

 これによってフィチーノ土星と憂鬱質の価値転換をすることとなります。土星は太陽から最も遠く、冷たく乾いた凶意を持つ惑星から、太陽から最も遠いゆえに最も深遠な最高位の惑星となり、憂鬱質は単なる怠惰な気質から、事物の中心に沈滞する事のできる哲学者の気質となったのです。このような認識のもとに、学者や文人のための憂鬱質の治療に関して記した『三重の生について』(De Vita Triplici, )1489年に刊行します。これは後にパラケルススやアグリッパといった人物に影響を与えることになります。

 ハインリッヒ・コルネリウス・アグリッパは16世紀ドイツの人文主義者で魔術師とも言われていた人物です。アグリッパは、フィチーノによって転換された憂鬱質の価値を受け取り、1533年に刊行した『オカルト哲学』(De Occulta Philosophia Libri Tres)*2の第160章に憂鬱質について書いています。ここには憂鬱質の人物が神託を受け、驚異的な偉業をなしとげ、未来の出来事を予言する事さえあると書かれています。このような憂鬱質は、当時の学者や芸術家のあこがれとなったことでしょう。そしてこの章がもとになってデューラーの『メレンコリアⅠ』が描かれたという事が近年の研究によって明らかになっています。

 また、この『オカルト哲学』には、第227章に人体の比率についてとして、このブログの3ルネサンスのシンメトリーでふれた「ウィトルウィウス的人体図」が描かれています。デューラーは『人体均衡論四書』(1528)として、人体の比率を追求しており、ここにも『オカルト哲学』からの影響を見る事ができるでしょう。

 この『オカルト哲学』は当時としては多くの部数が刊行されたようです。それは内容が、新プラトン主義やカバラといった理論的なものに留まらず、占いや薬草(その中には惚れ薬まである)など実用的な面もあったためでしょう。そして『オカルト哲学』は海を渡って、エリザベス朝の魔術師ジョン・ディーの蔵書の一つでもありました。ジョン・ディーはユークリッド原論の序文*3において、参考図書として、デューラーの『人体均衡論』とともに『オカルト哲学』をあげています。

 ようやくここにシェイクスピアの近くにまで来ました。ジョン・ディーとシェイクスピアが関係していた事の直接的な証拠は残ってはいないようですが、おそらくディーからシェイクスピアへの影響はかなり強いものがあったと思われるのです。それはこれから『ハムレット』の対称構成をさらに読み込んでいく事によって、そこにルネサンスプラトン主義が組み込まれている事をみることで、明らかになるでしょう。

 このような背景のもとハムレットルネサンスの憂鬱質を体現したキャラクターなのです。しかしハムレットには『メレンコリアⅠ』に描かれているような透徹した視線を持った憂鬱質が見られるかといえば、そうではないでしょう。ハムレットには死の間際に、つぎの国王にはフォーティンブラスが選出されるべき、と語る台詞がありますが、ここに憂鬱質の予言的能力をみる人もいます。またTo be,or not to beに始まる独白に哲学的思考を見ることもできます。それでもルネサンスの哲学的な思考を抱く憂鬱質には少し弱いかもしれません。しかし『ハムレット』には、今回見てきたフィチーノによって価値転換された憂鬱質が描かれているのです。それに関しては、対称構成を全て見た後に、明らかにしたいと思います。

 次回は対称構成に戻ります。第二幕第二場に、オフィーリアにあてたハムレットのラブレターをポローニアスが批評しながら読む場面があります。これと対称となる場面が後半部にあります。それについて見ていきたいと思います。

*1:フィチーノの出生天球図は 伊藤博明 『ルネサンスの神秘思想』講談社学術文庫 2012年 に掲載されています。

*2:『オカルト哲学』はHiro氏の翻訳により、全文をネット上で読むことができます。

occultlibrary.wiki.fc2.com

*3:ユークリッド『原論』英語版への数学的序文における建築論 これはフランシス・イエイツ 藤田実訳 『世界劇場』晶文社 1978 の巻末に掲載されています。