ハムレットのシンメトリー

Hamlet's Questions and One Man's Answers

27.ハムレットの手紙と対称となるのは

 今回から、再び『ハムレット』のシンメトリー構成に戻ります。前回まで、対称構成の表はだいぶ埋まり、あとは2か所が空白になっているだけです。

 

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 今回は、第二幕第二場でオフィーリアにあてたハムレットからのラブレターをポローニアスが面白半分に批評しながら読む場面と対称となる箇所を、後半部から探っていきたいと思います。

 まずは、この第二幕第二場がどのような場面だったかを振り返ってみましょう。

 ヴォルティマンドとコーニーリアスが、王と王妃にノルウェー王とフォーティンブラスの件を報告した後、退場しますと、ポローニアスがハムレットの狂気について話題にします。そして娘のオフィーリアが受け取ったハムレットからの恋文を、王と王妃の前で読み聞かせます。

 

ポローニアス 「天女のごときわが魂の偶像、いとも麗しのオフィーリアへ」―これはまずい文句だ、だいいち品がない、「麗しの」は品がない。ですがともかくお聞きを。かように続きますでな、「いともま白きその胸にこの文を」

ガートルード その手紙をハムレットがオフィーリアに?

ポローニアス まあしばらくご辛抱を。正確に読みますので。

「星々の火なるを疑うとも

太陽の動くのを疑うとも

真実を嘘つきならんと疑うとも

ゆめ疑うなかれわが愛を

ああ愛するオフィーリア、ぼくはこうした詩は苦手だ。溜息の数を数えて詩の平仄に合わせる素養がないのだ。だがあなたをこの上なく、ああこの上なく愛ししている事だけは信じてほしい。さようなら。

この体の機能しうる限り、ああいとしい人よ、永遠にあなたのものである。  ハムレット

これをですな、まことに聞き分けのよい娘で、私に見せてくれました。ほかにも殿下が言い寄りましたる次第、いつ、どのように、どこで、と、逐一この耳に入れてございます。*1

 

 ポローニアスは、オフィーリアにハムレットの申し出を受けることなく、贈り物も受け取ってはならないと忠告し、娘はそれに従ったため、ハムレット鬱状態となり気が狂ってしまったのだと王と王妃に説明します。これを聞いて、王と王妃はそうかもしれないと思いながら確信が持てない様子です。そのため、ポローニアスが、ハムレットの前にオフィーリアを放って、隠れて様子をうかがってみましょうと提案します。

 このような場面なのですが、先にあげた表では「ポローニアスが面白半分に批評しながら読む」と書きました。ハムレットの状態を心配してのことで、面白半分ではないのかもしれませんが、ポローニアスの言葉は変に韻を踏んでいたり、長ったらしくてウザいのです。批評はしているようです。

 さて、この部分と対称となる箇所が後半部にあるのですが、その探す範囲はかなり狭まっています。ハムレットがイギリスへの渡航を命じられる場面が、第四幕第三場ですからそこから第四幕第五場のレアティーズが王に詰め寄る場面までの間です。下のシンメトリー構成の図のd の部分です。

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その間にどのような事が起きているのか見てみましょう。

クローディアスがハムレットにイギリス行きを命じて第四幕第三場が閉じ、第四幕第四場になりますとフォーティンブラスの軍隊が登場します。ハムレットがその軍隊に出くわし、その隊長にどこの軍隊かと聞き、しばらく隊長とハムレットが対話します。この後、ハムレットの独白があり第四幕第四場は閉じます。第四幕第五場は心を病んだオフィーリアがガートルードに面会する場です。あわれなオフィーリアはガートルードとクローディアスの前で歌を歌い、二人の涙を誘います。その後、オフィーリアの兄であるレアティーズが登場し、王に詰め寄るわけです。

 大雑把に見て、フォーティンブラスの軍隊の場面と、それに続くハムレットの独白、オフィーリアがガートルードに面会する場面です。この中で、第四幕第四場でのハムレットと隊長との対話とそれに続くハムレットの独白はQ2によるもので、F1*2では削除されている部分です。F1は上演台本をもととしたテキストではないかといわれています。シェイクスピアが、その上演台本の構成に関わったと想定すれば、シンメトリー構成が含まれている部分を削除するとは考えられません。そうすると残る部分は、第四幕第四場、フォーティンブラスの軍隊の場面と、第四幕第五場、オフィーリアがガートルードに面会し、気のふれた歌を歌う場面です。

 第四幕第四場は、フォーティンブラスがデンマーク王に、領内を通過するため挨拶をするようにと、隊長に命じ、隊長がそれを受けた後、軍隊に出発が命じられ、退場となります。

 第四幕第五場は、ガートルードのもとにオフィーリアがホレイショーによって連れてこられます。オフィーリアがガートルードに会いたがっていたためですが、当初ガートルードはオフィーリアに会うことに乗り気ではないでした。しかし、ホレイショーがオフィーリアの哀れな状態を伝え、会うこととなります。 ガートルードに会うと、オフィーリアは気のふれた様子で、恋人を亡くした悲しみの歌を歌いだします。その場にクローディアスも来ると、オフィーリアは、操を失って男に去られた女の歌を歌います。その場からオフィーリアが退場すると、クローディアスがレアティーズに彼女を追うように命じます。その後、クローディアスの独白の後、舞台裏で騒音がし、レアティーズが登場し王に詰め寄る場面となります。

 さて、いかがでしょうか?第四幕第四場は、フォーティンブラスと隊長の台詞を合わせて9行でしかなく、そこには前半のハムレットの手紙をポローニアスが読み聞かせる部分と対称となる要素はないようです。そうすると、オフィーリアの場面に対称となる要素がありそうです。詳しく見てみましょう。

 第二幕第二場でポローニアスが、ガートルードとクローディアスにハムレットのオフィーリアにあてた手紙を読むのは、ハムレットに狂気の疑いがあるためでした。一方、第四幕第五場でガートルードのもとに、ホレイショーによってオフィーリアが連れてこられるのも、オフィーリアの狂気のためです。そして、ハムレットの手紙に書かれた詩に対しては、オフィーリアの歌う歌が対称となっているようです。これを、オフィーリアの歌をラブソングとみなせば、ラブレターとラブソングとして対称となっています。

 このように、この二つの場面は対称となっていることがわかりました。さて『ハムレット』のシンメトリー構成は、To be, or not to be つまり舞台に見えるように表現されているか、そうでないかという事が、組み込まれていました。このハムレットの手紙とオフィーリアの歌う歌のそれぞれの場面はどうでしょうか?

 まず、この二つの場面に共通するモチーフを見てみましょう。それは、詩あるいは歌われた歌として表現された感情という事ができます。この詩と歌を言葉と括ってしまえば、この二つの場面には、「言葉を伝える媒体」(手紙、あるいは歌)があり、「言葉を伝える側」(ハムレットあるいはオフィーリア) 、「言葉を伝えられた側」(そのほかの登場人物たち)のそれぞれ三つの要素がある事がわかります。

 第二幕第二場では「言葉を伝える媒体」は、ハムレットの書いた手紙とその中の詩です。そして「言葉を伝える側」はハムレットです。これらの舞台上での表現を見ますと、ハムレットは舞台上にはいないため、Not to be です。それに対して、手紙は舞台上に見えるように表現されているためTo be という事ができるでしょう。

 次に第四幕第五場を見てみましょう。「言葉を伝える媒体」は歌われた歌で「言葉を伝える側」はオフィーリアという事になります。そしてこの歌われた歌は、舞台に見えるように表現されているとは言えないためNot to beという事ができます。これらに「言葉を伝えられる側」を加えて表にすると以下のようになります。

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 舞台上に見えるか否かという事で考えましたが、むしろこの手紙と歌われた歌については、本質的な意味でそのあり方が、To be Not to be であると考えた方がいいでしょう。そのような認識で、少し詳しく考えてみましょう。

 まず言葉について考えてみますと、それは外からは見ることも聞くこともできない心の内実を外界に知覚できるように表現した形であると言えるでしょう。その過程をより細かく見ると、心の内に未だ言葉になっていない想いがあって、それが言語化されます。それはまだ外に表現されず、自分の心の内にのみ、つぶやかれる言葉です。そしてその言葉をもとに手紙や詩が書かれ、あるいは歌が歌われます。この過程をTo be,or not to be,で表現すれば、Not to be(形のない心)からTo be (言葉としての形)という方向性が見られます。

 このような心の過程は、手紙、あるいは詩を書く際にはより明確となります。なぜなら手紙にしても、詩にしても心に浮かんだ言葉をそのまま文字にするのではなく、他者に読ませるために言葉を吟味し選択する過程が必ず伴うからです。手紙であれば相手の心に配慮しながら言葉を選ばなくてはならず、詩であれば定められた韻律に従って言葉を選ぶ事が必要です。

 このように思考によって心の内容をいわば純化し濃縮された言葉は、それが紙に書かれれば書き手を離れても存在し続け、意味を伝えることが可能となります。当然この純化、濃縮という過程がなくても言葉は紙に書き残すことはできるでしょう。しかしそれは物質的には紙の上に存在しても、読み手の心の内には残らないでしょう。

 こうして手紙、または詩を例として見ると、言葉の過程は最終的には相手の心に残り、その心を揺り動かすという、いわば魔術的と言ってもいい働きを目的としていることがわかります。Not to be(言葉を発する側の心)からTo be (外界へ発せられた言葉)を通じNot to be(受け取る側の心)へという過程をそこに見ることができます。

 次にオフィーリアの場合について、この過程を見てみましょう。まずNot to beとしてのオフィーリアの心の領域です。オフィーリアはハムレットの彼女に対する態度の変貌や、父親であるポローニアスの突然の死と、公には隠されたその埋葬、こういった要素によって心のバランスを崩してしまいます。彼女には、これらエルシノア城に渦巻く隠し事と、ただならぬ雰囲気を理性によって整理する余地はなく、レアティーズのように王に詰め寄るようなこともできませんでした。彼女にできたのは混乱した想いを混乱したままに言葉にする事だけなのです。その様子をホレイショーが次のようにガートルードに報告をしています。

 

ホレイショー 父親の事を何度も申します。噂で聞いた、

どこか怪しいなどと、変に咳払いをしたり、悲しげに胸をたたいたり、

藁しべほどのことを咎めだててなにか口走りますが、

   それがまったく意味をなしません。とりとめのないうわごとというか、

 

 言葉によって整理されない彼女の心の内は、言葉にできない圧力が高まっていくだけです。そしてそれが耐えられないほどになったとき、狂った振る舞いと歌として外界へ表出します。この振る舞いと歌がオフィーリアの外界に発せられた言葉であり、Not to be(オフィーリアの心)に対するTo be (言葉)という事ができます。

 オフィーリアの歌(第四幕第五場) ドラクロワ 1834年

 しかし先ほども見たように、ハムレットの手紙をTo be とした場合には、これとの対比においてはオフィーリアの歌う歌はNot to beとなります。それは物質としての存在が歌の場合は希薄であるということです。手紙が、その書き手であるハムレットがその場にいなくても存在するのに対して、歌は歌い手であるオフィーリアが歌うことによって成立しており、彼女と不可分です。歌われている歌は、歌い手を離れてそれ自身で存在し続けることはできず、歌われたその場でたちまちに失われてしまいます。実際に当時の演出でこの場面で歌われたメロディーは失われており、現代の演出では新たに作曲されることが多いと言います。

 このように物質性の希薄な歌ですが、その一方で心の面から見れば、歌は心の動きをより直接的に表現しているということができるでしょう。この場面でオフィーリアの歌う歌は王と王妃、さらに兄であるレアティーズの涙を誘います。心を病んだオフィーリアの歌う歌は、たとえその歌詩に意味を汲み取ることができなくても、その心は聞く者達の心に響くのです。オフィーリアに一緒に歌うことを促されたレアティーズは次のように言っています。

 

レアティー なんの意味もない話が意味以上のものを伝える。

 

 このような作用がオフィーリアの歌う歌と振る舞いにあるのは、彼女の心の動きと直接的につながっている呼吸や声、身振りがその歌と振る舞いの背後にはあるからです。混乱や嘆きは、呼吸と声を通して歌に現れ、聞く者の心を揺さぶるのです。そこに知性が介在する必要はないのです。

 この点について、対照となるハムレットの手紙について見ると、ハムレットの手紙はポローニアスによって批評されながら読み上げられており、批評という知的作業が描かれていることで、やはり受け取る側についてもオフィーリアの歌う歌とハムレットの手紙の対称性が際立っています。ハムレットの手紙が知性によって書かれ、やはり知性によって受け取られ批評されるのに対し、オフィーリアの歌う歌はその表出と、受け取られるに際しても、ともに身体性に根ざしていると言うことができるでしょう。

 このようにハムレットの言葉である手紙、詩とオフィーリアの言葉であるその歌と振る舞いのそれぞれが外の世界に表現され、受け手に受け取られるまでの過程を比較しまとめたものが下の表です。

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 ここでは受け手の反応として、反感と共感という言葉をつかいました。ハムレットの手紙はポローニアスによって読み上げられ、「これはまずい文句だ。だいいち品がない」などと批評されます。ここに働いている感情は反感です。この手紙を受け取ったオフィーリアは共感を感じたのではないかとも思われますが、父親であるポローニアスの「殿下のお出ましには身の回りに固く錠を下ろせ、使いに会うことも、贈り物を受け取ることもまかりならぬ。」という言いつけに従い、父親に手紙を差し出した時点に反感の芽生えを見て取ることができるでしょう。

 詩が知性だけによって書かれ読まれるかといえば、決してそうではなく、例えば優れた詩作品は知性で読み取られる意味と共に、心に作用する韻律が伴っています。そして詩の韻律はやはり呼吸などの身体のリズムを基としています。例をあげれば、ホメロスイーリアスオデュッセイアは全編が長短短の六歩格で書かれているのですが、これは人間の安静時の脈拍と呼吸のリズムであると言われています。*3

 オデュッセイアなどは作者によって書かれたものではなく口承されたものが後に記述されたものであると言われていますが、ここで重要なことはそのような詩の韻律の伝統が途切れることなく続いており、このハムレットの手紙においてはすでに詩が口承されるのではなく、知性によって創作され、批評される時代となっていることです。ハムレット自身このような詩作が苦手であることをその手紙のなかで創作した詩の後に書いています。

 

「ぼくはこうした詩は苦手だ。溜息の数を数えて詩の平仄にあわせる素養がないのだ。」

 

 この台詞からも詩の平仄、つまり韻律が呼吸と関係を持っていることがわかりますが、ハムレット自身が自らの詩についてそのように書き、ポローニアスが批評するように、その詩はあまり優れたものと言うことはできないもののようです。そして総じて受け手への影響を見ると、ハムレットの手紙とその中の詩よりもオフィーリアの歌う歌の方が強いものを持っていると見なすことができるでしょう。

 もしかするとシェイクスピアは先に引用したレアティーズの台詞の「なんの意味もない話が意味以上のものを伝える。」によってそのことを暗示したのではないかとも思われるのです。その台詞の原文は"This nothing’s more than matter. "です。つまり "nothing"を物質性の希薄な言葉である歌われている歌、" matter"を紙という素材に書かれた詩、手紙と解釈すれば*4、この台詞はハムレットの手紙とオフィーリアが歌う歌の対称関係を暗示し、物質性が希薄な歌われた歌の方が、紙の上に書かれた詩よりも、ダイレクトに心に響くことを表しているのかもしれません。

 今回は少し長文になってしまいましたが、次回もこのハムレットの手紙とオフィーリアの歌う歌についてさらに考えてみたいと思います。

 

*1:ハムレット』の引用は、大場建治訳、注解 シェイクスピア選集8 ハムレット 研究社 2004年から、以下同様

*2:F1は『ハムレット』のテキストの形態で、ファーストフォリオ、第1二つ折り本。これに対してQ2は、セカンドクオート、第2四つ折り本。二つ折り、四つ折りとは印刷用全紙の折り方で、二つ折り本は開いた際に全紙の大きさとなる。

*3:「人は安静時、一分間にほぼ十八回の呼吸をし、並んで七十二回の脈拍を打つが、これは比率にすると1対4となる。一方、Daktylusの短音節を一拍と考え、長音節を二拍分と考えれば、一拍と詩脚全体との比もまた1対4となる。つまり短音節は脈拍一度に相当し、長音節は吸う息、または吐く息に相当するので長短短は四脈一呼吸と考えられる。更に詩脚を一単位と見做せば、詩脚が三歩進むごとに一歩の休符が来て、朗詠者はそこで呼吸を整えるのだが、この四単位をひと振りと見れば、一詩脚との比も再び1対4となる。語句のリズムが人間の組織のリズムである呼吸と脈拍に一致していたからこそ、古代ギリシアの朗詠者は、一つの叙事詩を長時間にわたって語ることができたのであり、また聴衆も極く自然に、やはり長時間にわたって詩を聴き続けることができたのだ」川手鷹彦(一九九二)「癒し」としての教育―言語治療の実践より― 『アガトロギア』 第二号33-34

*4:matterは、問題、重要といった意味の他、物質、材料といった意味がある。例.printed matter 印刷物