ハムレットのシンメトリー

Hamlet's Questions and One Man's Answers

38.塵の人間の尊厳について

 前回は絵画の技法から、ルネサンスマニエリスムを比較し、それを『ハムレット』の表現に当てはめて考察しました。今回は人文学としてのルネサンスと、それがどのように『ハムレット』に影響を与えているかを見てみたいと思います。

 教科書的には、ルネサンスには人文主義者によって、古典の研究から人間が考察され、それによって封建的な中世からの世界観から人間は解放され自由になったといわれています。まあ、そんな単純なものではないので、このようなルネサンス観は現代では批判されることも多いようです。   

 以下に引用したのは、そんな教科書にも取り上げられることも多いピコ・デラ・ミランドラの『人間の尊厳についての演説』の一節です。

 

おお!なんと言う人間に与えられた最高の驚くべき至福よ!人間は自ら選ぶものを持ち、自ら望むものになる力が与えられている。獣は生まれるやいなや、母の胎内から将来所有することになるものすべて持ち来たる。霊的存在は創造の発端、あるいはその直後から、永遠になるべくものになっていく。一方、人間が神から生を享けるや、あらゆる種類の種子とあらゆる生命の芽を与えられた。個々の人間がいかなる種を育成しようと、それは成熟し自らの中に果実を生み出すだろう。*1

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ピコ・デラ・ミランドラ

確かにここには人間の可能性と自由が高らかに宣言されており、近代的な人間観に通じるものが感じられるのでしょう。しかし、この文は以下のヘルメス文書の『アスクレピオス』からの影響を強く受けたものといわれています。

 

人間というものはなんと大きな驚異だろう。なんと敬愛と賞賛に値する存在だろう。というのもかれは一柱の神としての本性の中へと渡り行く者だからである。あたかも彼自身一柱の神でもあるかの如くに彼は神霊達の族と親しく交わる。彼らと同じ出自である事を知っているからだ。彼は自身の本性の中、人間にしか属さないものを侮蔑する。他の部分に宿る神性に望みを懸けているからだ。*2

 

アスクレピオス』の中のこの文は、ルネサンスに人間の卓越性を示すものとして、様々な文脈で引用されたといわれています。そして、シェイクスピアも何らかの形でこの文に触れた事があるのではないのかと思われるのです。それは『ハムレット』第二幕第二場でローゼンクランツとギルデンスターンに対しての台詞にその影響が感じとれるからです。

 

ハムレット 人間はなんという傑作だろう!崇高な理性、無限の能力。姿といい、動きといい、なんとみごとな表現力を備えていることか。行動は天使に似て、理解力は神さながら。この世の精華、命あるものの理想像。だがなんだというのだ、こんな塵の塵たる存在が。面白くないのだよ。人間なんて。*3

 

 ハムレットのこの台詞と『アスクレピオス』からの一文を並べてみると、ともに人間存在への感嘆に始まり、その本質が神的存在のようであると述べられている事がわかります。しかし『アスクレピオス』では、「人間にしか属さないものを侮蔑する」のは人間の「他の部分に宿る神性に望みを懸けているから」であるのに対し、ハムレットの台詞では、人間の卓越性を認めてはいても、もはやそれに望みを懸ける事はできないでいる事が読み取られます。『アスクレピオス』の言葉で言うところの「人間にしか属さないもの」への侮蔑が前面に出ていると言えるでしょう。

 もしもシェイクスピアがこの『アスクレピオス』の文を知っていた上でこのハムレットの台詞として作り変えたのであるとしたら、人間に宿る神性に望みを託する事ができなくなった事態が問題意識としてあったかもしれません。

 ハムレットはこの台詞の中で「塵の塵たる存在」と人間を表現し侮蔑します。「塵の塵たる存在」とは原文では quintessence of dust です。 quintessence は典型、精髄と訳され、dust は塵ですから、直訳では「塵の精髄」となるでしょう。この「塵の精髄」という言葉によって人間を指している背景には、創世記の神が土の塵で人を作ったという逸話によっていると考えられます。土や塵といったメタファーと創世記については、ハムレットの憂鬱質との関連で次回に考えてみたいと思っていますが、ここでは先ず、「塵の精髄」の「精髄」の方を考えてみましょう。

 この「精髄」を意味するquintessence ラテン語quinta essentia 「第五精髄」の英語化した言葉です。そしてこの「第五精髄」は、古代ギリシア四大元素の上位にあるとされる第五元素に由来しています。古代ギリシアからの世界観では、生成消滅する地上の事物の活動は四大元素が関わるのに対して、天上の存在には第五元素が関わるとされていました。この第五元素によって天上の星辰は不滅であり、その運動は永遠となります。*4

 この永遠性をつかさどる第五元素の概念は古代からルネサンス期にも引き継がれ、地上の事物に秘められた天上の永遠性を抽出しようとした錬金術の実験を経て第五精髄となります。この quintessenceという英単語は錬金術を由来したものだったのです。

 しかしハムレットの台詞では、「塵の第五精髄」quintessence of dustとなり、「塵」dust という言葉によって第五精髄は地へと引きずりおろされます。古代から、そしてキリスト教や新プラトン主義、錬金術において探求されてきた地上的な存在を超える永遠性はここにおいて全否定されるのです。

 ルネサンスとは古典古代の復興です。そしてマニエリスムは復興された古典の意図的な転倒という事ができました。これまで『ハムレット』の中にいくつかのマニエリスム的な箇所を見てきました。これらをマニエリスム的とする理由はその背後に転倒されたルネサンスが見られるからです。

 前回からここまで考察してきた『ハムレット』の中のマニエリスム的な箇所を、古典古代・ルネサンスマニエリスムという流れにあることを表にして以下に確認してみたいと思います。

 

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 さらに付け加えれば、ハムレットの詩と手紙に見ることができる地動説と機械論的な人間観*5マニエリスム的な要素という事ができるでしょう。マニエリスムはその背景を旧来の世界観が新たな世界観によって揺さぶられ崩壊していく時代に持ちます。中でもコペルニクスによる地動説は最も大きな世界観の転換を強いたといえるでしょう。

 プトレマイオスから受け継がれ、ルネサンス期まで改革を重ねた天動説、それを文字通り転倒して生まれたコペルニクスの地動説は、そのような歴史的経緯をみればマニエリスムの母体となったことに大いにうなずくことができるのではないでしょうか。

 これらマニエリスム的な要素は当然アムレートの物語にはありません。それにもかかわらず、『ハムレット』の中に違和感なくこれらが収まり、ハムレットの性格を形作る要素となっています。ハムレットにとって父は古代の神々を体現したかのような理想的な国王でした。しかしその死後、クローディアスが国王となることによってハムレットの精神に不安と混乱がもたらされます。このようなハムレットの精神をもたらした王位の交代は、マニエリスムの時代の世界観の転換と、それによる不安や精神的危機に重なり合うという事ができるのではないでしょうか。そしてこの事が『ハムレット』の中にマニエリスム的要素が違和感なく収まっている理由なのでしょう。

*1:ピーター・J・フレンチ 高橋誠訳 『ジョン・ディー エリザベス朝の魔術師』 平凡社 1989年 74ページ また『人間の尊厳についての演説』の全文はHiro氏の翻訳によって全文をネット上で読むことができます。

occultlibrary.wiki.fc2.com

*2:フランセス・イェイツ 前野佳彦訳 『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』工作舎 2010年 54ページ

*3:ハムレット』の引用は、大場建治訳、注解 シェイクスピア選集8 ハムレット 研究社 2004年から

*4:第五精髄についてはヒロ・ヒライ『エリクシルから第五精髄、そしてアルカナへ 蒸留とルネサンス錬金術』〈kindle〉から要約しました

*5:ハムレット』における地動説と機械論的人間観に関しては28.歌は精気にどのように作用するかの後半で考察しました。

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