34. 鏡としての『ハムレット』
前々回からの続きです。前々回は、まずABCDEF| fedcba構成の中心は閉幕後のホレイショーの語りと対応関係を持つのではないかと仮定しました。そしてそのABCDEF| fedcba構成の中心は、第三幕第四場のハムレットがガートルードに向ける鏡であることがわかりました。
それではこの鏡とはホレイショーの閉幕後の語りとの関係でどのような意味を持つのでしょうか。それとも意味のある関係などないのでしょうか。今回はそれを探っていきます。
もしもこの鏡に特別な意味を持たせているとしたら、『ハムレット』の中にあるもう一つの鏡についての言及がヒントとされているのかもしれません。これは第三幕第二場にあります。
ハムレット 芝居の目ざすところはだね、そもそもの昔も、そしていま現在も、いわば自然に向けて鏡を掲げる、美徳には美徳の姿を、軽蔑すべきは軽蔑の姿を、つまり当代の実態そのものを、姿かたちそのままにうつし出すことにある。*1
これはハムレットが劇中劇の舞台の前に、その役者たちに対して演技上の注意を行うなかで話しているもので、そこで芝居のメタファーとして鏡を取り上げているのです。
この「いわば自然に向けて鏡を掲げる」とは何を意味しているのでしょうか?アルプス山脈をバックにした草原に大きな鏡が立っている、そのようなイメージが浮かびかねないですが、それは間違いです。この「自然」”nature” は、そのような自然ではなく、むしろ本質や本性といった意味です。それと言うのも、この台詞では「芝居の目ざすところ」と一般化して語られてはいますが、ハムレットが劇中劇の上演で意図していることは、クローディアスに先王の殺害を模した演劇を見せることで、それによってクローディアスの殺人者としての本性を映し出し、暴くという意図があるからです。
「自然」”nature”の対義語は「人工」”art”ですが、ハムレットの意図に沿って考えれば、クローディアスのデンマーク国王としての顔や政治的手腕が”art”でその裏に隠された殺人者としての本質が”nature”です。この本質をうつし出し見える鏡として、ハムレットは劇中劇を演出するのです。
この本質を見えるようにするという事は、ABCDEF| fedcba構成の中心である鏡をハムレットがガートルードに向けるときにも「あなたの本当の姿を見ることができるように。」と言っています。やはりこの二つの台詞は関連して読まれる事が目的とされているのではないでしょうか。
そしてこれと対応関係にあると仮定した閉幕後のホレイショーの語りには前口上のようなものが、閉幕の直前にあります。
ホレイショー まずこれら遺骸を壇上高く
公に安置するよう命じていただきたい。しかるのち
わたくしの口を通して、未知なる世人に、ことの出来の仔細をば
語り聞かせるとしましょう。いまこそ明らかになるは、
淫乱、殺人、不倫の所業、
偶然の断罪、不慮の謀殺、
加えていまここに悲劇の総決算たる計略の齟齬、
応報の決着、それらのすべてをわたくしが
正しく告げ知らせましょう。
これを先に引用した鏡についてのハムレットの台詞と比較すると、その中にある「当代の実態そのものを、姿かたちそのままに映し出す」という言葉とほぼ同じことを言っている事に気付きます。ただ鏡についての言及はありません。それに対して、ガートルードの居室でハムレットがガートルードの前に立てる鏡については演劇についての言及はありません。このように見ますと、第三幕第二場のハムレットの芝居についての台詞が、閉幕後のホレイショーの語りとABCDEF| fedcba構成の中心である鏡を意味の上で接続しているということができるでしょう。
この表で同じ色の単語がほぼ同じ事を意味しています。これによって閉幕後のホレイショーの語りがABCDEF| fedcba構成の中心である鏡と結びついていることがわかるでしょう。それでは、これによって何が表されているのでしょう?
まず鏡の対象を映し出すという機能から見れば、ホレイショーの閉幕後の語りもホレイショーが体験したデンマークの悲劇を映し出したものと言うことができるかもしれません。そして『ハムレット』劇とはホレイショーの閉幕後の語りが舞台上で形となったものだとすれば、それは鏡像のようなものと言えるでしょう。このこともまたホレイショーの閉幕後の語りが舞台上の劇『ハムレット』に転じるということを暗示する役割を持っているのかもしれません。
そしてそれと同時に劇中劇がクローディアスの過去の行為を鏡のように映し出すように、『ハムレット』もまた「当代の実態そのものを、姿かたちそのままに映し出す」という鏡としての芝居の作用によって、当時の政治や王室を写し出していたのかもしれません。もしそうであるとしたら『ハムレット』が映し出した当代の実態とは何だったのでしょう。おそらく当時の観客が『ハムレット』を観た時に思い出したのではないかと考えられる事件が1567年にあったのです。
1567年にスコットランド女王メアリー・スチュアートの夫ダーンリーが殺害されるという事件がありました。そのほぼ3か月後に、メアリー・スチュアートはその事件の容疑者であったボスウェルと結婚したのですが、世論はこの結婚に反対し貴族たちが反乱を起こした結果、メアリーは捕らえられ、ダーンリー殺害に関わったとして告発され、退位させられました。
この事件と『ハムレット』との関係についてが、石井美樹子著『シェイクスピアと鏡の王国』の中で考察されています。以下に抜き出して引用します。
告訴の根拠が事実であろうとも、でっちあげであろうとも、ダーンリー殺害とメアリーの早すぎる結婚という一連の事実が、夫を殺した男と結婚した姦婦のイメージを世間に与えることになったのは確かであった。赤ん坊のときに母親から切り離され、反女王派の廷臣たちによって育てられたメアリーのひとり子ジェームズは、母のことを父を捨てて恋人のもとに走った姦婦だと教えられて大きくなった。
前王を殺害し、「女王」との結婚によってデンマーク王となったクローディアスに、エリザベス朝の観客はボスウェルのイメージを重ねたに違いない。
『ハムレット』の素材については、『原ハムレット』と研究者たちによって名づけられた作品(現存しない)や十二世紀のサクソ・グラマティクスの『アムレトゥスの生涯』、ひいてはスカンディナヴィアの神話は民話とのかかわりが指摘されているが、じつは同時代の政治的、社会的状況こそシェイクスピアにとっては最も滋養ある糧であったのではないだろうか。1570年ごろに、サクソの物語をフランス語に翻訳したフランソワ・ドゥ・ベルフォレは、サクソの王妃を夫の生前からその弟と密通した姦婦に変え、主人公のアムレットに母の罪を激しく糾弾させている。サクソやベルフォレでは、母親の存在感は希薄であるのに、『ハムレット』のガートルードは、再婚によって、息子が人の世に絶望するほどの衝撃を与える。このような人物像の変更にも、スコットランド女王をめぐる時局が大きく反映されている。*2
この記述を読むと、確かにエリザベス朝の観客たちにとって『ハムレット』は「当代の実態そのものを、姿かたちそのままに映し出す」鏡であったのだろうと感じられます。
そして現代の私たちにとっても『ハムレット』はいまだにこの時代を映し出す鏡として作用しているのではないでしょうか。それは現代の批評理論によって批評され続けている事実に現れています。
さらにこのブログのように、『ハムレット』の中にルネサンスの世界観を読み取り、ルネサンス人が何を見て感じていたか、それを読み取っていく事も、『ハムレット』を鏡としてそこに映し出された時代の本質を見る事と言えるでしょう。そして、それは同時に私たち自身の時代の本質を浮かびあがらせる鏡にもなるのです。