ハムレットのシンメトリー

Hamlet's Questions and One Man's Answers

35.『ハムレット』を「鬼」で解釈する

 このブログは『ハムレット』の新たな解釈を公開するのを目的としているのですが、前々回はてなブログの「今週のお題」にそって書いてみたら、わりと面白いうえ新たな発見もあったりしたので、今回もそれを期待してお題で書いてみようと思います。それで、「今週のお題」は「鬼」です。これは節分の季節だからのお題なのでしょう。

 当然『ハムレット』には鬼もトラ皮パンツも出てこないし、ましてや節分もありません。しかしこれは『ハムレット』ブログです。無理矢理にでも『ハムレット』の鬼を追求するのです。まずウィキペディア の「鬼」を見ますと、鬼が5種類に分類されています。引用します。

 

1.民俗学上の鬼で祖霊や地霊。

2.山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼、例:天狗。

3.仏教系の鬼、邪鬼、夜叉、羅刹

4.人鬼系の鬼、盗賊や凶悪な無用者。

5.怨恨や憤怒によって鬼に変身の変身譚系の鬼。

 

 これらをそれぞれ『ハムレット』にそって考察してみたいと思うのです。

 

 1.民俗学上の鬼で祖霊や地霊 から検討してみましょう。もともと漢字の鬼の意味は死者の魂なのだそうです。それならば『ハムレット』にも鬼が出てくるではないですか。父ハムレットの亡霊です。父ハムレットの霊ですから祖霊であり、デンマーク国王の霊ですから地霊の要素もあるかもしれません。

 父ハムレットの亡霊は開幕後から話題にのぼりすぐに登場します。もともと亡霊の存在に懐疑的だったホレイショーは、自ら亡霊を目の当たりにすることで、それがデンマークに何か異変が起きることの前兆なのではないかと言います。そこに再び亡霊が登場します。歩哨とホレイショーはこの亡霊に国を憂いて現れたのであれば、それは何かと問いかけます。無言の亡霊に歩哨のマーセラスは矛槍でもって打ちかかりますが、亡霊は消えてしまいます。

 亡霊に国の大難の前兆を見て追い回しているのですから、これはアレです。追儺の儀式。節分の豆まきの原型になった儀式です。そうするとホレイショーはその学識でもって亡霊に対処することをもとめられているので、追儺での陰陽師の役割を期待されているようなものです。ホレイショーは超自然的なものは信じていないようですが。この第一幕第一場の季節は冬のようですから季節も節分と一致とみなしましょう。

 

 2.山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼。これは『ハムレット』にはないです。無理矢理こじつけたくてもデンマークには山がないのです。ここは諦めます。

 

 3.仏教系の鬼、邪鬼、夜叉、羅刹。『ハムレット』には仏教は出てきませんが、この仏教系の鬼の役割は地獄での獄卒で、そこでの死者の魂を監督するものとすると、これはキリスト教では地獄での悪魔の役割と重なるでしょう。

 『ハムレット』で最初に登場する死者は父ハムレットですが、この方は地獄で悪魔に責められてはいません。死んだ父ハムレットのいるのは地獄ではなく煉獄です。煉獄で悪魔に責め苛まれているのかというとそうではありません。煉獄には悪魔がいるのではなく、そこでは浄めの火が燃えているのです。

 

亡霊 わたしはお前の父親の亡霊だ。

裁きの結果相当の期間夜はこの世をさまよい歩き、

昼は食を断って浄火の中に籠められ、

生前犯した罪業のかずかずが焼かれ

浄められるのを待つ身なのだ。*1

 

 このように煉獄には火が燃えているだけで、悪魔とか鬼に類するものはいないようです。そういった鬼のような存在は地獄のほうで煉獄にはいないようです。それではこの亡霊は地獄と悪魔とは無関係かというと、そうではなく、ややこしい問題がそこにはあるのです。

 それというのも、煉獄というのはカトリック教会の教義のもので、プロテスタントではその存在が否定されているからです。カトリックでは天国に召されるにはまだまだだけれども、地獄行きとするほどの罪を犯していたわけでもない魂たちの行き場、あるいは苦行の場として煉獄があったわけで、天国と煉獄に行った魂たちは、この世に亡霊としてちょっと顔を出すことが許されていたようです。地獄行きの魂はずっとそこです。亡霊として現れることはありません。

 これに対して、プロテスタントでは死者の魂の行く先は、天国か地獄のどっちかで容赦ありません。さらにそこからこの世に戻ってくるということはできません。そうすると、一つの疑問が浮かび上がります。時々、この世をうろついている亡霊はなんなのか?プロテスタントではこういった亡霊はみんな人間をかどわかすために悪魔が姿を変えたものと見なしているのです。ハムレットはこの前までウィッテンベルク大学で学んでいたのですから、プロテスタントの教育を受けているわけです。亡霊の言葉に対して疑いが生じます。

 

ハムレット なにぶんあの亡霊は

悪魔かもしれない、悪魔は相手次第で気に入る姿を

装うことができる。そうか、ことによったら

こっちの神経衰弱、憂鬱症につけ込んだか、

悪魔はこうした弱みを得意になって攻め立てるというから、

さてはおれを誑かし地獄に堕とす魂胆か、

 

 父親の亡霊は身をもって煉獄を体験しているのですが、息子の方は煉獄には否定的、世代間で宗教的意見の相違がありそうです。

 

 4.人鬼系の鬼、盗賊や凶悪な無用者。これは『ハムレット』においてはフォーティンブラスが辺境の無法者たちを集めてデンマークから領土を奪い返そうと画策しているという逸話が思い浮かびます。

 

ホレイショー さて、ここに彼の忘れ形見の

フォーティンブラスがいる。血気にはやる世間知らずの

若者で、ノルウェーの辺境のここかしこ、

浮浪の無法者を手当たり次第抱え込んでいる、

 

 フォーティンブラスは第五幕第二場に登場するのですが、そこでは理性的な印象です。第一幕の段階ではこのようにヤバい奴という印象で語られています。 

 

 5.怨恨や憤怒によって鬼に変身の変身譚系の鬼。『ハムレット』の中ではさすがに鬼に変身してしまう人はいませんが、憤怒の形相でレアティーズがクローディアスに迫る場面が第四幕第五場にあります。

 レアティーズはもともと青春を謳歌するような多血質の気質だったのですが、父親のポローニアスが不審な亡くなり方をしたため、怒りに満ちた胆汁質となってしまっています。

symmetricalhamlet.hatenablog.com

まあ、この気質の変容を鬼に変身したようなものと言ってしまうこともできるでしょう。

 

 こうやって見ると『ハムレット』はなかなか鬼に満ちているではないかと思われます。さらにウィキペディアの「鬼」の語源の項目には以下のように書かれています。

 

「おに」の語は「おぬ(隠)」が転じたもので、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものであることを意味する、との一説が古くからある 。

 

 なるほど、「鬼」とは「おぬ(隠)」だったのか。ここから思い出されるのは「オカルト(occult)」という言葉です。現代では非科学的である相手を罵倒する時に使われたりする言葉となっていますが、もともとは「隠されたもの」という意味で、そこから超自然的な事物をさすようになりました。つまり「鬼」「おぬ(隠)」と同じ意味をたどっているようです。

 アグリッパ・フォン・ネテスハイムの「オカルト哲学」は「隠秘哲学」と呼ばれることもありますが、「おぬ哲学」あるいは「鬼哲学」でもいいのかも。たしかに「オカルト哲学」の第三巻には西洋の鬼である悪魔たちについて3章にわたって書かれています。

occultlibrary.wiki.fc2.com

 

 このブログでは『ハムレット』を対称構成で読み解き、それによってTo be,or not to beというハムレットの台詞の新たな解釈をしてきました。それは、To be,or not to be とは見えるように演出されているか、そうでないか、という解釈です。To be が見えるように演出されたもの、Not to beが見えるようには演出されていないものです。そしてこの見えるようには演出されていないものが『ハムレット』においてはとても重要であるという事をこれまで書いてきました。

 具体的には、閉幕後のホレイショーの語りは見えるように演出されていませんのでNot to beです。このNot to beである閉幕後のホレイショーの語りが見えるように演出されたものが『ハムレット』劇そのものだと解釈します。

symmetricalhamlet.hatenablog.com

 何が言いたいかというと、Not to beとは「おぬ(隠)」つまり鬼ではないか?閉幕後のホレイショーの語りが、化けて出てきたのが『ハムレット』劇です。こんなことを考えると『ハムレット』はまったく「鬼」の戯曲なのではないかと思えてきました。

 

*1:ハムレット』の引用は、大場建治訳、注解 シェイクスピア選集8 ハムレット 研究社 2004年から