36.アナモルフォーズの演劇
前々回からの続きです。前々回は『ハムレット』のABCDEF| fedcba構成の中心である第三幕第二場のガートルードに向ける鏡について考察しました。今回は、その鏡に関連しながらABCDEF| fedcba構成全体について考えてみたいと思います。
このブログの3.ルネサンスのシンメトリーで、ルネサンス期はシンメトリーが重視されていた事と、それゆえに『ハムレット』がシンメトリーに構成されているというのもあり得るのではないかと書き、ルネサンスのシンメトリー絵画の例としてラファエロの『アテネの学堂』の画像を添付しました。
symmetricalhamlet.hatenablog.com
その後のブログでABCDEF| fedcba構成として6対のシンメトリーペアを見出して、それを図とともに解説しました。さらに『ハムレット』は円環するように構成されているとしてABCDEF| fedcba構成を楕円形で図示しました。
さて、『アテネの学堂』や『ウィトルウィウス的人体図』が円の中にシンメトリーで描かれていた事を考えると、この『ハムレット』も円の中にABCDEF| fedcba構成がシンメトリーとして配置されています。これをもってして『ハムレット』もルネサンス芸術の理念のもとに作られたといえるのではないでしょうか?
しかし、本当は『アテネの学堂』のようにきれいなシンメトリーではないのです。実際のところは以下の図のようになります。この図は『ハムレット』のページ数をもとに『ハムレット』を円形にした際にABCDEF| fedcba構成がそれぞれ円のどこに位置するかを示したものです。
少しこの図を説明します。研究社の大場建治訳の『ハムレット』は対訳なのですが、『ハムレット』本文がちょうど6ページから357ページまでなのです。この研究社大場訳でABCDEF| fedcba構成のそれぞれのページ数を確認して、360度分度器の画像を加工して配置しました。太線の弧は第一幕、第三幕、第五幕で、細い弧は第二幕、第四幕です。
この図で最初に気づくのは、真ん中にあるのはE として示した劇中劇であり、ABCDEF| fedcba構成の中心である第三幕第二場の鏡はFとfの間ですので、全体の後半よりに位置していることです。
また、劇中劇と対称ペアであるハムレットのイギリスへの渡航はe で示されていますが、藤色で大きく記してあります。それは、第四幕第三場でハムレットがイギリス行きを命じられ退場した箇所から、第四幕第六場でハムレットからの知らせが書面でホレイショーに届くまでの間が、ハムレットがイギリスへ渡航している可能性のある箇所ですが、舞台で表現されておらずその時間の確定はできないため、そのように記してあります。藤色は舞台で表現されていない事を示しています。
その藤色の大きなe の上にはd とc が記されていますが、これはハムレットがイギリスへの渡航のため舞台から姿を消している間に、舞台ではd オフィーリアが歌う場面とc レアティーズがクローディアスに詰め寄る場面が進行している事を表しています。また、aも藤色にしましたが、これはハムレットの遺骸が高檀に上げられるのは閉幕後であり、やはり舞台では表現されていないためです。
さて、このようにABCDEF| fedcba構成の中心である鏡は全体の中心からはずれ、中心にはE の劇中劇があり、それと対称となるe のハムレットのイギリスへの渡航は不確定のため可能性として大きく広がり、その上に別の場面があるのです。ABCDEF| fedcba構成は、前半部と後半部が鏡像のように対称的になっているため鏡像構成という呼び方ができたはずですが、それでもこれを鏡像構成と呼んでもいいものでしょうか?それともこの鏡は歪んだ鏡なのでしょうか?もしそうだとしても歪んだ鏡など役に立つものでしょうか?
実のところ、この時代の絵画を見ると、凸面鏡が描かれているものがいくつかあります。当時は日常用いる鏡として凸面鏡が一般的に使われていたようなのです。下の版画はドイツの鏡職人の工房を描いた1568年のものです。女性が工房を訪れて手鏡を選んでいるようです。その手鏡も後ろに下げられた鏡も凸面鏡です。
また、ファン・エイクの『アルノルフィーニ夫妻の肖像』1434では背景の壁に凸面鏡がかけられていることがわかります。
凸面鏡がどのように対象を映すか、わかりやすく描かれた作品がマニエリスムの画家パルメジャニーノの自画像です。この絵は凸面鏡によって映された自画像です。中心に描かれた画家の顔にはほぼ歪みはないですが、周辺に描かれた手は大きくなり、背景の部屋は歪んで描かれています。
このような凸面鏡に映し出された像の特徴を見ると、『ハムレット』のABCDEF| fedcba構成の図の特徴と共通していることがわかります。もう一度この図でE|eのペアを見てみましょう。Eである劇中劇は全体の中心に位置し、それに対称となるe のハムレットのイギリスへの渡航は舞台の外側でその時間が特定できないため近似値として大きく示されます。これは中心がはっきりと描かれ外側になるにしたがって歪んでいく凸面鏡の像と同じです。このように考えると、『ハムレット』のABCDEF| fedcba構成は鏡像構成ではあるものの、歪んだ鏡像構成ということができるでしょう。
このような凸面鏡や歪んだ鏡を利用した絵画があります。それはアナモルフォーズと呼ばれそのままでは一見何が描かれているかわからない像が歪んだ鏡によって映し出したり、斜めから見ることでとはっきりした像が浮かびあがるというものです。
アナモルフォーズで描かれたもっとも有名な美術作品がホルバインの『大使たち』です。
立派な身なりをした2人の男のが様々な物品に囲まれて描かれています。この2人の足元の間になんだかよくわからない物が描かれています。しかしこの絵をを画面すれすれの横の方向から見るとそのよくわからないものから髑髏が浮かび上がるというものです。
このようにして髑髏を浮かび上がらせて見るときには、描かれている他の全ては形を失います。これによって死が訪れる時には何もこの世からは持っていく事はできない事が示唆されるのです。そして栄華を誇る者達も死からは逃れることができない事を鑑賞者は読み取る事ができます。
しかしこの絵は、蒲池美鶴著『シェイクスピアのアナモルフォーズ』*1によると、横の方向から見るだけではなく、凸面鏡をかざす事によっても髑髏を映し出して見ることができるといいます。凸面鏡を使って見る時には、描かれている他の物と同時に髑髏を見る事ができます。これによって単に横から眺めて髑髏を見る事によっては明かされなかったこの絵画に込められて意味が明かされていきます。ここではその詳細は記しません。興味を持たれた方はぜひ購入するなり借りるなりしてお読みください。
このアナモルフォーズで用いられている凸面鏡の役割をみますと、ハムレットが演劇について語った「自然に向けて鏡を掲げる」という言葉、またガートルードに鏡を向けて言った「あなたの本当の姿をみることができるように」という言葉が意味している鏡の役割がわかるでしょう。見える姿をありのままに映す鏡ではなく、視点を変える事によって見えていなかった本質を映し出す鏡なのです。
見方によって別のものが見えてくるアナモルフォーズは、当時の画家だけでなく思想家や科学者にも様々なインスピレーションを与えたと前掲書『シェイクスピアのアナモルフォーズ』には書かれています。そしてそれはシェイクスピアをはじめとする劇作家もまた例外ではなく、彼らによって「アナモルフォーズの演劇」が作られたといわれます。この「アナモルフォーズの演劇』を定義して蒲池美鶴氏は次のように書かれています。
「アナモルフォーズの演劇」とは、劇中に存在する一つの言葉、一行の台詞、あるいは一つの短い場面などが、正面から見たときにははっきりとした像を結ばないが、別の視点から見るとそこに明確な像が浮かび上がり、それが劇全体の解釈に大きな影響を及ぼすように描かれた演劇である。
『ハムレット』はTo be,or not to be,that is the question. という一つの台詞が劇の中では幾通りかの意味を持ちはっきりしなかったものが、劇の外側の視点から見ることによって「舞台上に見えるように形作られているか、否か」というまったく別の具体的な意味が浮かび上がりました。そしてそのような劇の外側からの視点に導くものが ABCDEF| fedcba構成でした。このように振り返って見ると『ハムレット』もまた「アナモルフォーズの演劇」なのだということができるでしょう。
今回は『ハムレット』のABCDEF| fedcba構成とその中心の鏡がどうやらアナモルフォーズの影響を受けたものであるのではないかと見てきました。次回はこれらをもう少し掘り下げていきたいと思います。