ハムレットのシンメトリー

Hamlet's Questions and One Man's Answers

33.『ハムレット』の手帳

 今回はこれまでの流れをお休みして、はてなブログの「今週のお題」で書いてみたいと思います。このブログは『ハムレットのシンメトリー』と題して『ハムレット』の謎解きを目的としたブログなので、お題に関しても『ハムレット』に即した事を書ければと思っています。

 そして、今週のお題は「手帳」です。いや、もうすでに先週のお題なのですが、手帳は備忘録とも言いかえることができます。用途としては、忘れてしまった時に備えて、または忘れてしまわないために記入する物です。ハムレット自身手帳を持ち歩いて、何か気に入った言葉に出会ったときに書き綴っていたようです。その手帳がでてくるのが、ハムレットが父の亡霊にであった直後の場面です。

 『ハムレット』第一幕第五場でハムレットの前に父の亡霊が姿を現し、さんざん亡霊としての身の上話やクローディアスへの恨みつらみ、復讐への要請を語り、最後に「忘れるな」と言います。ハムレットは、おののきつつ万物に呼びかけながらこの言葉を反芻します。

 

ハムレット おお天国の全軍よ!地上の万物よ!それから?

地獄の助けも求めるか?馬鹿な!心よ、動じるな!

筋肉よ、急に老いこむな。 

俺をしっかり支えてくれ。忘れるな?

いいとも、哀れな亡霊、この狂った頭に

記憶の座がある限り。忘れるな?

分かった、おれの記憶の手帳から

くだらん書き込みはきれいさっぱり消してやる。

本で憶えた金言名句、ものの形、ありとあらゆる過去の印象、

子供のころから見聞きした一切合切だ。

この脳髄の手帳には

いまの命令ただひとつ、くっきり記しておくぞ。

雑念は締め出す。そうとも、誓って!*1

 

 ハムレットはここで手帳を、記憶の比喩として使っています。この当時の手帳とは象牙などでできた薄い板(writing tablet) を束ねたものだったそうです。当時は鉛筆の原始的な形態が出始めた時で、今のようによく消える消しゴムなどなく、拭き取って消すには紙よりもこのような板のほうが都合が良かったのでしょう。この拭き消す事のできる機能が、この台詞の中では重要な役割を担っています。自分の記憶から一切の余計な印象を去らせて、父の亡霊からの命令だけを刻み込むと宣言しているのです。さらにこの台詞の続きを見てみましょう。

 

ハムレット ああ、なんという邪悪な女! 

ああ、悪党め、あの悪党、微笑みを浮かべた大悪党!

そうだ、この手帳に書き留めておこう。

人はにこやかに、にこやかに微笑みつつ悪党たりうる。

少なくともデンマークには間違いなくそういう奴がいる。

                               (書く)

貴様のことだよ、叔父上さま。

 

 ハムレットはここで、父を殺した叔父と、その叔父と結婚した母、そしてその微笑を思い出していきり立ちます。ここで実際の手帳がでてきます。そこで思いついた表現を手帳に記すのです。わざわざ手帳に書くのは、忘れないためにです。

 でも、それでいいのか?ついさっき一切合切を記憶から消し去って父の亡霊からの命令だけを記しておくのだ、と宣言したばかりなのに、微笑みつつ悪党とか書くのか?

いやハムレットは父の亡霊の命令だって忘れてはいません。当然です。つい先ほどその命令を受けたのですから。続きを見てみましょう。

 

ハムレット 次は俺の座右の銘だ。

「さらば、さらば、父の言葉を忘れるな」

天に誓ったぞ。

 

 これ?「父の言葉を忘れるな」原文では”remember me”ですから「私を忘れるな」なので、これは確かに命令ではあります。でも、もっと大切な亡霊からの命令は「極悪非道な殺人に復讐せよ」ではなかったのか?記憶の手帳に記しておくのはこっちのほうだろ、だからダメなんだよ、アンタは、などと思いたくなりますが、これは劇なのですから冷静に読んでいかなくてはなりません。むしろここは笑うところなのだろうか?そんなふうに考えていたのですが、真相は別だったようです。

 ここで問題となるのは父の亡霊の最後の言葉「さらば、さらば、さらば、父の言葉を忘れるな」ですが、原文では”Adieu, adieu, Hamlet remember me.”です。この言葉を受けてハムレットは「忘れるな?」と自分の言葉の中で繰り返します。しかしこちらは原文では”Remember thee?” です。このtheeは昔の二人称単数目的格です。直訳すれば「お前を忘れるなだと?」となるでしょう。 さらにこの台詞の最後に、自分の座右の銘だといって父の言葉「さらば、さらば、父の言葉を忘れるな」と言います。こちらは原文では”Adieu, adieu, remember me.”で目的語はmeとなっています。ハムレット自身の口で「さらば、さらば、私を忘れるな」と言っているわけです。

 『ハムレット』のストーリーをすで知っている私たちは、ハムレットが死の間際にホレイショーに自分が死んだ後に自分の事を正しく伝えることを依頼する事を知っています。それを踏まえると、ハムレット自身が第一幕第五場で「さらば、さらば、私を忘れるな」と誓う場面は、第五幕第二場のハムレットの死の直前の場面と響きあうように思われます。なるほどこの言葉が持つ役割はこれだったのではないのか。その場面のハムレットの台詞を見てみましょう。ハムレットから正しく事情を伝えるよう依頼されたホレイショーは一度はそれを断って、自分も毒の入った酒を飲んで死のうとします。ハムレットはその杯を奪い取って言います。

 

ハムレット ああホレイショー、事情が不明のままでは

俺の死後、どんな汚名が残るかわからない。

少しでも俺を大事に思うなら

しばらくは天に昇る至福をあきらめてくれ。

苦しいだろうが、すさんだこの世で生きながらえ

俺のことを語り伝えてくれ。

            (遠くから進軍の響き、そして一発の砲声)

何だ、あの勇ましい音は?

 

 この台詞が第一幕第五場でハムレットが誓う言葉であり、亡霊が最後に吐いた言葉「さらば、さらば、私をわすれるな」と響きあうわけです。そして、このハムレットが死の直前に聞いた進軍の響きはフォーティンブラスの軍のものです。

 「さらば、さらば、私をわすれるな」と父の亡霊が言って去った後、ハムレットは天の軍勢にまず呼びかけるのです(最初に引用したハムレットの台詞の冒頭)。この天の軍勢への呼びかけが第五幕第二場でのフォーティンブラスの軍勢に響きあっているのです。実に芸が細かいのです。

 

 このブログは『ハムレット』の中にある対称構成を解説し、その謎解きをしていくブログです。今回の記事には以下の記事が関連していますので、加えて読んでいただければと思います。

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*1:今回の『ハムレット』からの引用は、松岡和子訳 シェイクスピア全集Ⅰ ハムレット ちくま文庫 1996年 から引用しました。