ハムレットのシンメトリー

Hamlet's Questions and One Man's Answers

41.参考文献画像 続き

 今週のお題「買いそろえたもの」で、このブログを書くのに買いそろえたものは、前回のお題の「コレクション」の画像で紹介した本なので、これらの本について少し書いてみようと思います。

 同じ画像をのせるのもつまらないので鉱物コレクションを変えてみました。

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本棚右側

 これらの本の中で最も古いのがハンス・ヨナスの『グノーシスの宗教』です。本棚右側の上段右から2番目です。この画像のなかで唯一書店で購入したものだと思います。20年近く前のことです。当時、『ハムレット』はグノーシス神話で読むことができるのではないかと考えていた事があり、その頃に読んでいました。2000年近く昔に生きたグノースティコイたちに強く共感したものでした。

 

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本棚左側

 その当時住んでいた入間市の図書館で『ハムレット研究』(本棚左側下段右)を見つけ借り、その中のシンメトリー構成の表に興味を持ちました。興味深く感じたのですが、何やらこじつけっぽく感じたことは、2.ハムレット』のシンメトリーに書いた通りです。それで自分でも『ハムレット』にシンメトリー構成を探してみたわけです。このブログで紹介したシンメトリーのペアが見つかってから、それらが何なのかもっと詳しく調べるために、これらの画像の本を買いそろえたわけです。

 『スタンツェ』(本棚左側下段の文庫)は『イコノロジー研究』(本棚右側下段)と一緒に兄からもらったか借りたもので(もらったものと理解している)これは精気に関して詳しく書かれていて、これを読んで精気の世界観による『ハムレット』の理解が進みました。

 本棚右側下段は半分くらいがフランセス・イエイツの著作です。フランセス・イエイツはルネサンスのオカルト的側面を切り開いた学者です。もう30年以上前に亡くなった方ですが、このブログの『ハムレット』論を読んでもらえたら、などと妄想することもあります。

 本棚右側上段の『キャリバンと魔女』は最近、現役の魔女の方がYouTubeで紹介されていたもので読んでみました。キャリバンとはシェイクスピアの『テンペスト』の中に出てくる怪物です。内容は資本主義経済の発展と魔女裁判を論じたもので、シェイクスピアに関してはほとんど触れられてはいないのですが、私にとって、またこのブログにとってはとても興味深いものでした。

 もっとも最近購入したものは本棚右側の上段にある『サターン 土星の心理占星学』という本です。これは前回の40.土星の子供としてのハムレットの記事のために購入したのですが、結局ほぼ読まずに40.は投稿してしまいました。他にも通読していない本はたくさんあります。しっかり読んで今後のブログに活かせればと思っています。

40.土星の子供としてのハムレット

 今回取り上げる場面は、このブログでこれまでほとんど取り上げてこなかった場面です。それは第五幕第一場の道化の墓掘りが登場する場面です。第五幕第一場は前半と後半に大きく分けることができます。前半はこの墓掘りたちの場面で後半はオフィーリアの葬儀の場面です。オフィーリアの葬儀に関しては21.弔いと結婚、記憶と思いの記事で考察しました。

symmetricalhamlet.hatenablog.com

墓掘りたちの場面はシンメトリーのペアに入っていなかったためこれまで取り上げることがなかったのです。 

 しかしこの墓掘りたちが登場する場面は、ルネサンス思想、憂鬱質と占星術、新プラトン主義によって解かれる謎となぞなぞに満ちていて非常に興味深いものなのです。これまでの考察で『ハムレット』がこれらルネサンス思想と深い関係を持っているということがわかりました。これらは墓掘りたちの場面を考察する前提ともなるものです。そのため以前の記事と重複するところもあるのですが、この場面と関係が深いマルシリオ・フィチーノとその憂鬱質について、再確認したいと思います。*1

 マルシリオ・フィチーノは当時の最悪の気質といわれていた憂鬱質に悩まされていました。それというのも、フィチーノの憂鬱質は彼の出生天球図によって裏付けられていたからです。当時の医学は占星術と一体となったものであり、医師でもあったフィチーノは天球図を読むこともできました。フィチーノの出生天球図の上昇宮は宝瓶宮で、その中央に土星が位置しており、土星は、宝瓶宮の支配星であるため、宝瓶宮にある土星はその影響力を一層強めることになります。さらに土星は太陽と水星に90度の位置で影響を与えていたです。*2

 占星術土星は凶星とされており、憂鬱質の星でもありました。そのため土星の影響力が強く読み取れる自らの出生天球図を見てフィチーノは一層憂鬱になったのでしょう。しかし、フィチーノ土星と憂鬱質の肯定的な価値を取り上げることで、これを克服します。このような認識のもとに、学者や文人のための憂鬱質の治療に関して記した『三重の生について』を刊行するのです。

 それによると土星は惑星の中で最高位の天球にあり、それゆえに土星に対応する黒胆汁は思考をその対象の中心にまで貫入させ、探求するように仕向け、精神を外部からの刺激や自分の身体から引き離し超越的なものへ近づけようとするといいます。しかし同時に深遠な思索にふける思索家が憂鬱質に苦しめられる恐れもあるです。このような憂鬱質の両極的な性質は『ハムレット』第二幕第二場のローゼンクランツとギルデンスターンに対してのハムレットの台詞に見ることができるでしょう。

 

ハムレット  ぼくはね、胡桃の殻の中に閉じ込められてもいても、無限の宇宙の支配者だと思っていられる人間だ。ただ悪い夢にくるしめられているものでね。*3

 

 フィチーノ土星のもとに生まれた故に憂鬱質でした。しかし学者や思想家は出生時の星位によってでなくとも、その知的活動によって憂鬱質に苦しむ恐れがあるといいます。ハムレットはどうでしょうか。ハムレットは父が死ぬ前まではウィテンベルク大学の学生でした。しかし、文人であるとは書かれておらず、むしろ武人であったとも書かれている。しかしかなり思索的な性格であるのは事実です。ハムレットの出生天球図を作ることはできないにしても、その出生に関しては第五幕第一場に書かれています。

 第五幕第一場では墓掘りである道化に、ハムレットが誰の墓を掘っているのだと聞くが、適当にはぐらかされてしまいます。そこでハムレットは質問を変えて、墓掘りになってどれくらいになるかと訊ねます。

 

道化1    一年三百六十五日ある中で、あっしがこの仕事を始めたのは先の代のハムレット王がフォーティンブラスをやっつけた日で。

ハムレット  それから何年になる?  

道化1    ご存じねえんですかい。どんな阿呆でも知っているとも。ありゃハムレット王子様がお生まれになった日だ。頭がおかしくなってイギリスに送られた方だ。

                          :

                          :

道化1    あっしは餓鬼の時分から三十年ここで寺男やってますんで。

 

 

 この一連のやり取りから、道化1の墓掘りが墓掘りになったのは、父ハムレットが父フォーティンブラスを打ち倒した日であり、その日にハムレットが生まれている事、そしてそれは30年前である事がわかります。これらからハムレットの年齢が30歳であると推測されるのです。ハムレットは父が亡くなる前までは、ウィテンベルク大学の学生でした。当時でも30歳の大学生には違和感があるため、この年齢設定は謎とされています。

 しかし、この30歳という年齢設定は、土星との関係で解き明かすことができると思うのです。それと言うのも、この30歳とは土星の公転周期29.46年とほぼ一致するからです。土星は約30年かけて黄道上の同じ位置に戻ります。ハムレット30歳であるということは、その時の土星の位置が、出生時の位置と同じだという事です。これは占星術では、出生天球図上の土星と現実の土星が合の角度を形成することで、土星の働き、影響が強まることとなります。土星の影響が過剰になるということは、黒胆汁が過剰となる、つまり憂鬱質です。つまりこのハムレット30歳という年齢設定は、土星の影響下による憂鬱質という設定のための年齢であると考えられるのです。*4

  土星の影響下にある人々は「土星の子供たち」と呼ばれ、憂鬱質で陰険で、障害者、乞食、木こり、罪人、墓堀りなどになるとされていました。『ハムレット』第五幕第一場には墓掘りが出てきますが、これは土星の子供たちの代表ともいえるでしょう。そして、そこに登場するハムレットフィチーノ以降、土星の子供たちに取り入れられた思索的な憂鬱質なのです。

 第五幕第一場は、道化である二人の墓堀人夫が登場し、しゃべりながら墓を掘るところから始まります。実際の『ハムレット』の上演で舞台上に土を盛る事は、ほとんどないでしょうが、この第五幕第一場は憂鬱質の元素である土がどの場面よりも表現されています。

 

道化1  おい、そこの鋤を貸しな。古い家柄の身分ある紳士はお前、みんな庭師とどぶ浚いと墓掘りってことになっている。なにしろアダムさまのご職業をお継ぎあそばしてるんだからな。

 

 庭師、どぶ浚い、墓堀りといった土に関する仕事は、尊敬されるわけでもなく、むしろ蔑まれることの方が多かったでしょうが、これはアダムの仕事を受け継いでいるが故に、由緒正しいものなのだと道化1の墓掘りは言います。

 この墓掘りが言う「アダム様のご職業をお継あそばしてる」者たちの価値の転換は、ルネサンス期に憂鬱質と土星に関して起こった価値の転換に符合するように思われます。それまで憂鬱質は最悪の気質であり、土星は凶星であったため歓迎されることはありませんでした。しかしフィチーノによって、土星は当時に知られていた惑星の中で最高位の天球にあり、それゆえに最高の事物を探求する哲学者や芸術家の惑星と見なされるようになりました。そしてその影響下の憂鬱質も学者や芸術家、天才の気質として認知されるようになります。道化1の墓掘りは道化らしくしゃれを交えて冗談のように語りますが、そこには「土星の子供たち」の復権が重ねられているのではないでしょうか。

 

道化2  アダムってのは紳士だったのかね?

道化1  紋所つきの最初の土地持ちだ。

道化2  まさかそんな。

道化1  おや、お前さん異教徒かよ、なんて聖書の読み方をしてるんだ、聖書にちゃんと書いてある、「アダム掘りたり」ってな。紋所つきの土地持ちだからじゃねえのか、え、土地がねえのに掘れるもんかよ。

 

 道化1が言う聖書の記述「アダム掘りたり」とは、聖書のどこに書かれているのでしょうか。それは創世記第三章二十三節であると思われます。そこには「そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた」とあります。これは楽園追放の場面であり、追放されたアダムは死すべき存在となるわけです。つまりこの「アダム掘りたり」とは人間の死ととても密接な意味が含まれているのです。その意味においても墓掘りはまさにこのアダムの職業を受け継いでいるのです。

 また、その前の第三章第十九節には「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」 とあります。これは第二章第七節の「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」を踏まえたものですが、そこには「命の息」の記述はありません。むしろ執拗に人は土に過ぎないとたたみかけているようです。そして、これが『ハムレット』第二幕第二章のハムレットの台詞の「塵の第五精髄」と関連が深い聖書の記述です。人間は土から作られたのだから、土にすぎない。ハムレットにとっては、かつて永遠のものとして探求された第五精髄さえも塵なのです。

 聖書の記述では、アダムが耕したのは、人が造られたその土だといいます。そして、この墓掘りたちが掘るのは、人が死に土に還っていったその土です。ハムレットは、この第五幕第一場で、土に還っていく人のかつての生に、その遺骨から思いをはせることになります。

 この後、道化1は道化2になぞなぞを出します。

 

道化1 ようし、もう一つ訊いてくれる。ちゃんと答えられねえのなら、懺悔して首くくって―

道化2 縁起でもねえ、よしてくれよ。

道化1 いいか、石屋よりも、船大工よりも、大工よりも頑丈な家をこさえるのはだれだ?

道化2  絞首台づくり。あの木柱じゃ店子が千人入れ替わったってびくともしねえ。

 

 「土星の子供たち」は貧民や障害者など蔑まれる人々の他、大工など測量技術を必要とする職業も含まれていました。そして、絞首台に掛けられる罪人も「土星の子供たち」です。

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サトゥルヌスと彼の子供たち 15世紀中葉


 15世紀中葉の「土星の子供たち」の絵を見ると、手前にどぶ浚いのような人物と障害者、真ん中に農夫が、遠景には絞首台に掛けられた人物が描かれていることがわかります。道化2が答えた絞首台づくりも「土星の子供たち」であっても、なぞなぞの答えとしては不正解でした。道化1は答えられなくなった道化2に対して、答えを明かします。

 

道化1  いいか、今度訊かれたら墓掘りって答えな。墓掘りのこさえる家は最後の審判の日までもつんだ。 

 

 この台詞の最後の審判までもつ「墓堀りのこさえる家」とは、遺体を葬った墓の事を言っているのでしょうか?そうとは思えないのです。なぜならこの台詞の後、墓掘りは歌を歌いながら墓を掘り返し、そこから頭蓋骨を放り投げているのですから。最後の審判までもつ、という自らの言葉を否定し、その矛盾を示すかのように。

 これまで考察してきたように『ハムレット』はルネサンスプラトン主義の影響が強く見られます。新プラトン主義やグノーシス主義などにおいては、肉体は霊を幽閉した牢獄、あるいは墓に例えられます。それを踏まえると、この道化の言葉の最後の審判までもつ家とは、土に遺体を葬った墓ではなく、土に霊を葬った肉体のことを意味しているのではないでしょうか。そのように考えると、墓掘りの意味も変わってきます。遺体を埋葬するための墓掘りから、肉体に霊を葬る、つまり出生に関わるものとなります。墓掘りがハムレットの出生について語るのもつじつまが合うのです。

 また「 墓掘りのこさえる家は最後の審判の日までもつんだ」という言葉の最後の審判の意味も変わってきます。この最後の審判とはキリスト教的な世の終わりの審判ではなく、エジプトや東洋にみられるような、死後の裁きであるように思われるのです。

 この「最後の審判の日」は原文ではdoomsdayとなっています。この同じ語は第一幕第一場のホレイショーの台詞にも使われていました。亡霊が一度退場し、再び姿を現す直前の台詞です。*5

 

ホレイショー  かの大シーザーが倒れる直前の話だがね、

墓という墓が空になり、死者たちは白い経かたびらで

ローマの街なかをきいきいわめいて通ったという。

星は火の尾を引いて血がしたたり落ちる、

太陽は凶相を帯びる、大海原の満干を

支配するみずみずしい月も

蝕となって光を失いこの世の終わりさながらだった。

Was sick almost to doomsday with eclipse;

 

 「この世の終わり」として訳されている原語がdoomsdayですが、このホレイショーの台詞でも墓場からよみがえった死者のイメージがdoomsdayという語にともなっています。言うまでもなくキリスト教最後の審判の復活のイメージです。

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マルセイユタロット XX.審判

 タロットカードの審判のカードにも墓から死者がよみがえった絵柄が描かれており、このイメージは、当時のほとんど全ての人に共有されていたものでしょう。しかしもともとはdoomという語は判決や裁きといった意味だったといいます。このdoomという単語は第一幕第五場で亡霊がハムレットに語る台詞の中にも見ることができます。

 

亡霊  裁きの結果相当の期間夜はこの世をさまよい歩き、

GHOST Doomed for a certain term to walk the night,

 

 ここでは明らかに死後の裁きという意味でdoomという語が使われています。この事から考えても、第五幕第一場で墓掘りの台詞の中のdoomsdayが死後の裁きを意味しているとしてもおかしくはないでしょう。むしろdoomsdayキリスト教的な最期の審判のイメージによって死後の裁きという意味を覆い隠しているのかもしれません。この墓掘りが出したなぞなぞは二重のなぞなぞだということができるでしょう。

 このようにdoomsday 最後の審判という言葉の正統なキリスト教での意味の裏に、非正統的な意味が隠されて表現されているとしたら、それはシェイクスピアが異端的な信仰の持ち主でその信仰を隠しつつ表現した、などと考えることもできるかもしれません。小説や映画などでもおなじみの設定のため、そのような解釈はたやすいかもしれません。 

 しかしこれはむしろ新プラトン主義とキリスト教における魂と死後の復活の教義がはらむ問題が表されているのではないかと思われるのです。これまで見てきたように、プネウマ論をはじめ四体液説など、ギリシアに由来する多くがルネサンス期にはキリスト教に取り入れられていきました。マルシリオ・フィチーノプラトン全集の翻訳をした後『プラトン神学』を記し、キリスト教プラトンの思想の融合を図ります。しかし完全な融合には至らず、その著書の中には矛盾もあったのです。

 

だが、キリスト教徒であり司祭にもなった、ルネサンスプラトン主義者フィチーノがこの論を展開するには難題が待ちかまえている。というのも、肉体をともなうキリスト教的復活とプラトン的な霊魂の不死の間には、大きな隔たりが横たわっているからである。フィチーノはまず書の冒頭で、肉体は魂の牢獄であり、人間にわざわいをもたらすものと捉えて、読む者に強烈な印象を与える。これはきわめてプラトン的な言説であろう。書の中途でも、肉体からの解放が不完全なかぎり、人間の目的である神への霊魂の上昇が一時的で不如意に終わる事を指摘する。にもかかわらず最後には、霊魂だけの不死ではなく心身が一体となった、われわれの甦りを語ることになる。これは間違いなくキリスト教的である。これは一見して矛盾でなくなんであろう。*6                                          

 

 プラトンは『パイドロス』において肉体(ソーマ)は魂の墓(セーマ)であるとしました。一方、キリスト教では肉体は死後に墓から蘇るとしています。このようにこの両者がそれぞれ意味する肉体、死そして墓の関係は全く異なるものです。また、死後の審判についても、ギリシアでは死後に冥界において生前の行いが裁かれるとされるのに対して、キリスト教では世の終わりに地上で復活した死者たちが生前の信仰が裁かれます。

 これらを論理的に統合することはできないでしょう。フィチーノでさえ、その矛盾に目をつむるしかありませんでした。しかしシェイクスピアは修辞的な荒業によって、この矛盾を『ハムレット』の道化1のなぞなぞの答えの中のdoomsdayという単語の中に、キリスト教的な最期の審判と、ギリシア的な死後の裁きの意味を含ませることで一つにしたということができるのではないでしょうか。そうであるとしたら、シェイクスピアルネサンスプラトン主義をその問題点も含めて深く理解していたのかもしれません。

 



 

*1:フィチーノと憂鬱質に関してより詳しくは26.ルネサンスの憂鬱質に書いてあります。

symmetricalhamlet.hatenablog.com

*2:伊藤博明『ルネサンスの神秘思想』〈2012講談社学術文庫289293ページ

*3:ハムレット』の引用は、大場建治訳、注解 シェイクスピア選集8 ハムレット 研究社 2004年から

*4:この30歳ごろに土星が出生天球図のもとの位置にもどることは、占星術でサターン・リターンと呼ばれており、価値観の転換が強いられたり、克服すべき課題に直面せざるを得ないなどの意味があり、ハムレットの状況と重なります。

*5:以下のホレイショーの台詞はQ2にはあるものですが、F1にはありません

*6:根占献一、伊藤博明、伊藤和行、加藤守通『イタリア・ルネサンスの霊魂論』三元社 1995年 19ページ

39.参考文献画像

 はてなブログ今週のお題が「コレクション」ですので、私が『ハムレット』を読み解くのに集まっていった本を本棚に集めて写真に撮りました。参考文献として見てもらえればと思います。

 

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 一枚目の画像の下段は『ハムレット』と『ハムレット』の解説本です。上段はマニエリスムルネサンス関係です。

 下に置いてあるのはマルセイユ版タロットカードです。10代の頃にタロットカードを集めていた時があったのですが、当時はマルセイユ版には見向きもしないでした。ルネサンスに関心を持ってからマルセイユ版に惹かれるようになりました。

 

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 二枚目の下段は主にフランセス・イエイツとロザリー・コリーの著作で、上段は主に占星術と新プラトン主義とグノーシスの本です。鉱物標本は20代の頃にコレクションしていました。

 新書と文庫はとても参考にしたものだけ横にしてつっこんであります。『ハムレット』の二次創作作品も2冊あります。

 いずれ個別の本の紹介の記事も書ければと思っています。

 

 

38.塵の人間の尊厳について

 前回は絵画の技法から、ルネサンスマニエリスムを比較し、それを『ハムレット』の表現に当てはめて考察しました。今回は人文学としてのルネサンスと、それがどのように『ハムレット』に影響を与えているかを見てみたいと思います。

 教科書的には、ルネサンスには人文主義者によって、古典の研究から人間が考察され、それによって封建的な中世からの世界観から人間は解放され自由になったといわれています。まあ、そんな単純なものではないので、このようなルネサンス観は現代では批判されることも多いようです。   

 以下に引用したのは、そんな教科書にも取り上げられることも多いピコ・デラ・ミランドラの『人間の尊厳についての演説』の一節です。

 

おお!なんと言う人間に与えられた最高の驚くべき至福よ!人間は自ら選ぶものを持ち、自ら望むものになる力が与えられている。獣は生まれるやいなや、母の胎内から将来所有することになるものすべて持ち来たる。霊的存在は創造の発端、あるいはその直後から、永遠になるべくものになっていく。一方、人間が神から生を享けるや、あらゆる種類の種子とあらゆる生命の芽を与えられた。個々の人間がいかなる種を育成しようと、それは成熟し自らの中に果実を生み出すだろう。*1

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ピコ・デラ・ミランドラ

確かにここには人間の可能性と自由が高らかに宣言されており、近代的な人間観に通じるものが感じられるのでしょう。しかし、この文は以下のヘルメス文書の『アスクレピオス』からの影響を強く受けたものといわれています。

 

人間というものはなんと大きな驚異だろう。なんと敬愛と賞賛に値する存在だろう。というのもかれは一柱の神としての本性の中へと渡り行く者だからである。あたかも彼自身一柱の神でもあるかの如くに彼は神霊達の族と親しく交わる。彼らと同じ出自である事を知っているからだ。彼は自身の本性の中、人間にしか属さないものを侮蔑する。他の部分に宿る神性に望みを懸けているからだ。*2

 

アスクレピオス』の中のこの文は、ルネサンスに人間の卓越性を示すものとして、様々な文脈で引用されたといわれています。そして、シェイクスピアも何らかの形でこの文に触れた事があるのではないのかと思われるのです。それは『ハムレット』第二幕第二場でローゼンクランツとギルデンスターンに対しての台詞にその影響が感じとれるからです。

 

ハムレット 人間はなんという傑作だろう!崇高な理性、無限の能力。姿といい、動きといい、なんとみごとな表現力を備えていることか。行動は天使に似て、理解力は神さながら。この世の精華、命あるものの理想像。だがなんだというのだ、こんな塵の塵たる存在が。面白くないのだよ。人間なんて。*3

 

 ハムレットのこの台詞と『アスクレピオス』からの一文を並べてみると、ともに人間存在への感嘆に始まり、その本質が神的存在のようであると述べられている事がわかります。しかし『アスクレピオス』では、「人間にしか属さないものを侮蔑する」のは人間の「他の部分に宿る神性に望みを懸けているから」であるのに対し、ハムレットの台詞では、人間の卓越性を認めてはいても、もはやそれに望みを懸ける事はできないでいる事が読み取られます。『アスクレピオス』の言葉で言うところの「人間にしか属さないもの」への侮蔑が前面に出ていると言えるでしょう。

 もしもシェイクスピアがこの『アスクレピオス』の文を知っていた上でこのハムレットの台詞として作り変えたのであるとしたら、人間に宿る神性に望みを託する事ができなくなった事態が問題意識としてあったかもしれません。

 ハムレットはこの台詞の中で「塵の塵たる存在」と人間を表現し侮蔑します。「塵の塵たる存在」とは原文では quintessence of dust です。 quintessence は典型、精髄と訳され、dust は塵ですから、直訳では「塵の精髄」となるでしょう。この「塵の精髄」という言葉によって人間を指している背景には、創世記の神が土の塵で人を作ったという逸話によっていると考えられます。土や塵といったメタファーと創世記については、ハムレットの憂鬱質との関連で次回に考えてみたいと思っていますが、ここでは先ず、「塵の精髄」の「精髄」の方を考えてみましょう。

 この「精髄」を意味するquintessence ラテン語quinta essentia 「第五精髄」の英語化した言葉です。そしてこの「第五精髄」は、古代ギリシア四大元素の上位にあるとされる第五元素に由来しています。古代ギリシアからの世界観では、生成消滅する地上の事物の活動は四大元素が関わるのに対して、天上の存在には第五元素が関わるとされていました。この第五元素によって天上の星辰は不滅であり、その運動は永遠となります。*4

 この永遠性をつかさどる第五元素の概念は古代からルネサンス期にも引き継がれ、地上の事物に秘められた天上の永遠性を抽出しようとした錬金術の実験を経て第五精髄となります。この quintessenceという英単語は錬金術を由来したものだったのです。

 しかしハムレットの台詞では、「塵の第五精髄」quintessence of dustとなり、「塵」dust という言葉によって第五精髄は地へと引きずりおろされます。古代から、そしてキリスト教や新プラトン主義、錬金術において探求されてきた地上的な存在を超える永遠性はここにおいて全否定されるのです。

 ルネサンスとは古典古代の復興です。そしてマニエリスムは復興された古典の意図的な転倒という事ができました。これまで『ハムレット』の中にいくつかのマニエリスム的な箇所を見てきました。これらをマニエリスム的とする理由はその背後に転倒されたルネサンスが見られるからです。

 前回からここまで考察してきた『ハムレット』の中のマニエリスム的な箇所を、古典古代・ルネサンスマニエリスムという流れにあることを表にして以下に確認してみたいと思います。

 

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 さらに付け加えれば、ハムレットの詩と手紙に見ることができる地動説と機械論的な人間観*5マニエリスム的な要素という事ができるでしょう。マニエリスムはその背景を旧来の世界観が新たな世界観によって揺さぶられ崩壊していく時代に持ちます。中でもコペルニクスによる地動説は最も大きな世界観の転換を強いたといえるでしょう。

 プトレマイオスから受け継がれ、ルネサンス期まで改革を重ねた天動説、それを文字通り転倒して生まれたコペルニクスの地動説は、そのような歴史的経緯をみればマニエリスムの母体となったことに大いにうなずくことができるのではないでしょうか。

 これらマニエリスム的な要素は当然アムレートの物語にはありません。それにもかかわらず、『ハムレット』の中に違和感なくこれらが収まり、ハムレットの性格を形作る要素となっています。ハムレットにとって父は古代の神々を体現したかのような理想的な国王でした。しかしその死後、クローディアスが国王となることによってハムレットの精神に不安と混乱がもたらされます。このようなハムレットの精神をもたらした王位の交代は、マニエリスムの時代の世界観の転換と、それによる不安や精神的危機に重なり合うという事ができるのではないでしょうか。そしてこの事が『ハムレット』の中にマニエリスム的要素が違和感なく収まっている理由なのでしょう。

*1:ピーター・J・フレンチ 高橋誠訳 『ジョン・ディー エリザベス朝の魔術師』 平凡社 1989年 74ページ また『人間の尊厳についての演説』の全文はHiro氏の翻訳によって全文をネット上で読むことができます。

occultlibrary.wiki.fc2.com

*2:フランセス・イェイツ 前野佳彦訳 『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』工作舎 2010年 54ページ

*3:ハムレット』の引用は、大場建治訳、注解 シェイクスピア選集8 ハムレット 研究社 2004年から

*4:第五精髄についてはヒロ・ヒライ『エリクシルから第五精髄、そしてアルカナへ 蒸留とルネサンス錬金術』〈kindle〉から要約しました

*5:ハムレット』における地動説と機械論的人間観に関しては28.歌は精気にどのように作用するかの後半で考察しました。

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37.三一致の法則、線遠近法とマニエリスム

 前回は凸面鏡とアナモルフォーズの絵画を例として、『ハムレット』のシンメトリー構成が歪んだシンメトリーである事をみました。このブログの3ルネサンスのシンメトリーで見ましたように、シンメトリーはルネサンスの芸術で重視された概念でした。

 絵画の世界でラファエロやレオナルドらが活躍した盛期ルネサンスには、シンメトリーが尊ばれ一点透視の遠近法によって描かれたものが多いのですが、後期ルネサンスになりますと、もはやシンメトリーには描かれず、遠近法も不思議な雰囲気を醸し出すものに変化していきます。

 この後期ルネサンスとはマニエリスムの事ですが、シェイクスピアもまたマニエリスムの劇作家といわれます。今回から数回にわたって、『ハムレット』がどのようにマニエリスムの作品であるのかをABCDEF| fedcba構成による切り口で見ていきたいと思います。

 そのためにまずマニエリスムについてもう少し説明したいと思います。マニエリスムは美術史における用語で、盛期ルネサンスの後の様式です。また、マニエリスムは「意識的な反‐古典的な表現形式」*1といわれることもあり、この場合の「古典的な」とは古代ギリシア、ローマの復興としてのルネサンスということが出来るでしょう。ルネサンスの表現が古典に範を取り、均整を重視したのに対し、マニエリスムはそのルネサンス芸術が達成した均整を意図的にゆがめるような表現をしました。絵画作品の例を挙げて見てみましょう。

 下の絵はラファエロの『ヒワの聖母』です。盛期ルネサンスの作品の例です。

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ラファエロ 『ヒワの聖母』 1505‐1506年


かわいい顔していますね。人物も均整が取れて描かれていますし、背景の美しい風景も遠近法によって描かれ、人物と調和しています。全体もシンメトリーに描かれています。

 マニエリスム絵画の例として、次の絵はパルメジャニーノの『首の長い聖母』です。

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パルメジャニーノ 『首の長い聖母』 1535-1540年

 首が長いどころか指もやたら長いですし、首から下だって長い。抱かれている幼子イエスは顔色悪いですし、これもやっぱり長い。左側には天使か子供たちかこの空間に6つも顔が描かれています。さらに背景に目を移しますと、よくわからない円柱が一本と思ったら、土台を見ると何本もの円柱の影が描かれています。その円柱の手前にはどう見てもちいさいおじさんが巻物を広げていて、通常の遠近法が無視されています。この背景だけとってみるとシュールレアリスムのキリコかダリのような雰囲気があります。

 

 これら盛期ルネサンスマニエリスムの絵画の特徴をまとめて表としますと以下のようになるでしょう。

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 ルネサンスに発達した線遠近法では透視図の座標上に画題が配置されます。これによって特定の場所と時間が画面の上に描かれます。例として『アテネの学堂』を見てみますと、透視図の消失点は画面の中心に定められており、これによって鑑賞者の視点は固定され、すべての人物もゆがみのない空間の座標の下に配置されています。これによってアリストテレスプラトンもその他の哲学者たちも同じ空間、同じ時間を生きているように描かれています。

 おそらく絵画において遠近法が担った役割を、演劇においては三一致の法則が担ったものと思われます。三一致の法則とは古典演劇の法則で「時の一致」「場の一致」「筋の一致」を言い、一日の内に、一つの場所で、一つの筋が劇の内に一貫していなくてはならないとされています。

 シェイクスピアの作品は、舞台や時間、筋もあちこちにとび、この三一致の法則が守られないことが指摘されます。『ハムレット』もまたそうなのですが、その『ハムレット』の中の劇中劇を一つの劇として取り出してみますと、ここではこの三一致の法則が守られている事に気づきます。劇中劇の台詞は、弱強五歩格で全て脚韻を踏んでおり、この点でも古典的なスタイルで書かれているのですが、その内容も、時間は日中おそらく昼下がりに、場所は屋外、庭園で、王の甥が王を暗殺する、というように古典主義演劇の三一致の法則が守られています。

 この劇中劇の場面のイラストがニューケンブリッジシェイクスピア版『ハムレット*2に掲載されています。なんだか『アテネの学堂』に構図が似ているので並べてみました。

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アテネの学堂』とホッジスによる『ハムレット』劇中劇

これは挿絵画家のウォルター・ホッジスによるもので、暗殺者が王の耳に毒を注ごうとしている瞬間が中央で演じられ、奥ではそれをクローディアスと王妃が見、そのクローディアスの内面の動きをハムレットとレアティーズがそれぞれ別の角度から見逃すまいとしています。

 『アテネの学堂』で哲学者たちが一つの時間、空間に描かれていることと同様に、『ハムレット』の観客はこの場面に、これら人物のそれぞれ内面とその視線と緊張感が、同時にその場に存在しているのを見ることができるでしょう。また、演じられている劇中劇を中心としてそれを観るクローディアス、クローディアスを観察するハムレットといった同心円の構造によって観客の注意力を集中させる効果を持っています。この事も絵画技法の線遠近法の一点透視図法にある種の共通するものを感じさせられます。このように劇中劇とその場面は、線遠近法で描かれた絵画の特徴と共通するものを舞台上に持つと言ってもいいでしょう。

 三一致の法則にしても線遠近法にしても一つの視点からの均整のもとに作品が構成されます。それが絵画、演劇と異なるジャンルにおいて現れていることは、ルネサンス古典主義精神の本質の一端であるためでしょう。

 盛期ルネサンスからマニエリスムの時代になるとその時代の表現は変容していきます。先に『首の長い聖母』でみたように、遠近感は不安定となり、人物はうねり、一つの画面の中にいくつもの視点からの表現が現れます。

 アナモルフォーズもこの時代に現れたのですが、これは線遠近法の基礎の上に発展したもので、一方の側を縮め、他方の側を引き延ばすことによって極端に歪んで描かれます。そしてこの歪みを補正する仕方で見ることによって、それまで見えなかった正しい形の像が得られます。

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ニスロンによるアナモルフォーズ 1638年


 描かれているものを意図的に見えにくくし、特定の方法によってその像が得られるのですが、このようなアナモルフォーズの効果と同様の効果をもつ表現を、ハムレットのイギリスへの渡航のエピソードにみることができます。

 ハムレットのイギリスへの渡航は、舞台上では表現されませんが、その間に舞台では、レアティーズが父ポローニアスの死の真相を知ろうとクローディアスに詰め寄り、さらにそこで気のふれたオフィーリアの振舞いを目にします。ポローニアスの死、オフィーリアの狂気もハムレットに原因があるのですが、この場ではハムレットについて話題にされそうになっても、ほのめかされるだけで、直接その名前が口にされることはありません。

 この場面自体が気のふれたオフィーリアと怒りを爆発させるレアティーズが登場し、観客の感情を揺さぶるため、その時にイギリスへの途上にあるハムレットの事を思い出させることはないでしょう。これらは観客の注意力が意図的にハムレットその人からそらされているためではないかと考えられるのです。

 アナモルフォーズの絵画は、極度に歪ませることによって、その描かれたものが鑑賞者の表象に上らないように描かれます。対象を鑑賞者の表象からそらせている点で、第四幕第五場のハムレットのイギリスへの渡航に対する効果と同じものがあるのです。

 また舞台上では城の内のそれほど長くはない時間が演じられますが、ハムレットのイギリスへの渡航のエピソードは大海原からイギリスまでであり、時間的にも幅があります。この二つのエピソードはおそらくは同時に進行していると考える事もできますが、時間、空間的には全く異なったものとなっています。これもアナモルフォーズの特徴の歪みを思わせるのです。

 このように見ますと、『ハムレット』の劇中劇は、古典の復興としてのルネサンス、それに対してハムレットのイギリスへの渡航マニエリスム的であると見ることができます。これまで見てきたように、この劇中劇とハムレットのイギリスへの渡航は、明らかに対称的に描かれ、比較対照して読まれるように求められている事を考えると、ルネサンス的なものとマニエリスム的なものがそこに描かれている事はとても興味深いことだと思われるのです。



 

*1:ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』種村季弘矢川澄子(訳)〈1978美術出版社〉序文でマニエリスムに関してこのように表現している

*2:Hamlet Prince of Denmark” Edited by Philip Edwards The New Cambridge Shakespeare Cambridge University Press

36.アナモルフォーズの演劇

 前々回からの続きです。前々回は『ハムレット』のABCDEF| fedcba構成の中心である第三幕第二場のガートルードに向ける鏡について考察しました。今回は、その鏡に関連しながらABCDEF| fedcba構成全体について考えてみたいと思います。

 このブログの3ルネサンスのシンメトリーで、ルネサンス期はシンメトリーが重視されていた事と、それゆえに『ハムレット』がシンメトリーに構成されているというのもあり得るのではないかと書き、ルネサンスのシンメトリー絵画の例としてラファエロの『アテネの学堂』の画像を添付しました。

symmetricalhamlet.hatenablog.com

 その後のブログでABCDEF| fedcba構成として6対のシンメトリーペアを見出して、それを図とともに解説しました。さらに『ハムレット』は円環するように構成されているとしてABCDEF| fedcba構成を楕円形で図示しました。

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 さて、『アテネの学堂』や『ウィトルウィウス的人体図』が円の中にシンメトリーで描かれていた事を考えると、この『ハムレット』も円の中にABCDEF| fedcba構成がシンメトリーとして配置されています。これをもってして『ハムレット』もルネサンス芸術の理念のもとに作られたといえるのではないでしょうか?

 しかし、本当は『アテネの学堂』のようにきれいなシンメトリーではないのです。実際のところは以下の図のようになります。この図は『ハムレット』のページ数をもとに『ハムレット』を円形にした際にABCDEF| fedcba構成がそれぞれ円のどこに位置するかを示したものです。

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 少しこの図を説明します。研究社の大場建治訳の『ハムレット』は対訳なのですが、『ハムレット』本文がちょうど6ページから357ページまでなのです。この研究社大場訳でABCDEF| fedcba構成のそれぞれのページ数を確認して、360度分度器の画像を加工して配置しました。太線の弧は第一幕、第三幕、第五幕で、細い弧は第二幕、第四幕です。

 この図で最初に気づくのは、真ん中にあるのはE として示した劇中劇であり、ABCDEF| fedcba構成の中心である第三幕第二場の鏡はFfの間ですので、全体の後半よりに位置していることです。

 また、劇中劇と対称ペアであるハムレットのイギリスへの渡航e で示されていますが、藤色で大きく記してあります。それは、第四幕第三場でハムレットがイギリス行きを命じられ退場した箇所から、第四幕第六場でハムレットからの知らせが書面でホレイショーに届くまでの間が、ハムレットがイギリスへ渡航している可能性のある箇所ですが、舞台で表現されておらずその時間の確定はできないため、そのように記してあります。藤色は舞台で表現されていない事を示しています。

 その藤色の大きなe の上にはd c が記されていますが、これはハムレットがイギリスへの渡航のため舞台から姿を消している間に、舞台ではd オフィーリアが歌う場面とc レアティーズがクローディアスに詰め寄る場面が進行している事を表しています。また、aも藤色にしましたが、これはハムレットの遺骸が高檀に上げられるのは閉幕後であり、やはり舞台では表現されていないためです。

 さて、このようにABCDEF| fedcba構成の中心である鏡は全体の中心からはずれ、中心にはE の劇中劇があり、それと対称となるe ハムレットのイギリスへの渡航は不確定のため可能性として大きく広がり、その上に別の場面があるのです。ABCDEF| fedcba構成は、前半部と後半部が鏡像のように対称的になっているため鏡像構成という呼び方ができたはずですが、それでもこれを鏡像構成と呼んでもいいものでしょうか?それともこの鏡は歪んだ鏡なのでしょうか?もしそうだとしても歪んだ鏡など役に立つものでしょうか?

 実のところ、この時代の絵画を見ると、凸面鏡が描かれているものがいくつかあります。当時は日常用いる鏡として凸面鏡が一般的に使われていたようなのです。下の版画はドイツの鏡職人の工房を描いた1568年のものです。女性が工房を訪れて手鏡を選んでいるようです。その手鏡も後ろに下げられた鏡も凸面鏡です。

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『鏡職人』 1568年

 また、ファン・エイクの『アルノルフィーニ夫妻の肖像』1434では背景の壁に凸面鏡がかけられていることがわかります。

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ファン・エイク 『アルノルフィーニ夫妻の肖像』 1434年

 凸面鏡がどのように対象を映すか、わかりやすく描かれた作品がマニエリスムの画家パルメジャニーノの自画像です。この絵は凸面鏡によって映された自画像です。中心に描かれた画家の顔にはほぼ歪みはないですが、周辺に描かれた手は大きくなり、背景の部屋は歪んで描かれています。

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パルメジャニーノ 『凸面鏡の自画像』 1523-1524年

 このような凸面鏡に映し出された像の特徴を見ると、『ハムレット』のABCDEF| fedcba構成の図の特徴と共通していることがわかります。もう一度この図でE|eのペアを見てみましょう。Eである劇中劇は全体の中心に位置し、それに対称となるe ハムレットのイギリスへの渡航は舞台の外側でその時間が特定できないため近似値として大きく示されます。これは中心がはっきりと描かれ外側になるにしたがって歪んでいく凸面鏡の像と同じです。このように考えると、『ハムレット』のABCDEF| fedcba構成は鏡像構成ではあるものの、歪んだ鏡像構成ということができるでしょう。

 このような凸面鏡や歪んだ鏡を利用した絵画があります。それはアナモルフォーズと呼ばれそのままでは一見何が描かれているかわからない像が歪んだ鏡によって映し出したり、斜めから見ることでとはっきりした像が浮かびあがるというものです。

 アナモルフォーズで描かれたもっとも有名な美術作品がホルバインの『大使たち』です。

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ハンス・ホルバイン 『大使たち』 1533年

 立派な身なりをした2人の男のが様々な物品に囲まれて描かれています。この2人の足元の間になんだかよくわからない物が描かれています。しかしこの絵をを画面すれすれの横の方向から見るとそのよくわからないものから髑髏が浮かび上がるというものです。

 このようにして髑髏を浮かび上がらせて見るときには、描かれている他の全ては形を失います。これによって死が訪れる時には何もこの世からは持っていく事はできない事が示唆されるのです。そして栄華を誇る者達も死からは逃れることができない事を鑑賞者は読み取る事ができます。

 しかしこの絵は、蒲池美鶴著『シェイクスピアアナモルフォーズ*1によると、横の方向から見るだけではなく、凸面鏡をかざす事によっても髑髏を映し出して見ることができるといいます。凸面鏡を使って見る時には、描かれている他の物と同時に髑髏を見る事ができます。これによって単に横から眺めて髑髏を見る事によっては明かされなかったこの絵画に込められて意味が明かされていきます。ここではその詳細は記しません。興味を持たれた方はぜひ購入するなり借りるなりしてお読みください。 

 このアナモルフォーズで用いられている凸面鏡の役割をみますと、ハムレットが演劇について語った「自然に向けて鏡を掲げる」という言葉、またガートルードに鏡を向けて言った「あなたの本当の姿をみることができるように」という言葉が意味している鏡の役割がわかるでしょう。見える姿をありのままに映す鏡ではなく、視点を変える事によって見えていなかった本質を映し出す鏡なのです。

 見方によって別のものが見えてくるアナモルフォーズは、当時の画家だけでなく思想家や科学者にも様々なインスピレーションを与えたと前掲書『シェイクスピアアナモルフォーズ』には書かれています。そしてそれはシェイクスピアをはじめとする劇作家もまた例外ではなく、彼らによって「アナモルフォーズの演劇」が作られたといわれます。この「アナモルフォーズの演劇』を定義して蒲池美鶴氏は次のように書かれています。

 

アナモルフォーズの演劇」とは、劇中に存在する一つの言葉、一行の台詞、あるいは一つの短い場面などが、正面から見たときにははっきりとした像を結ばないが、別の視点から見るとそこに明確な像が浮かび上がり、それが劇全体の解釈に大きな影響を及ぼすように描かれた演劇である。

 

 『ハムレット』はTo be,or not to be,that is the question. という一つの台詞が劇の中では幾通りかの意味を持ちはっきりしなかったものが、劇の外側の視点から見ることによって「舞台上に見えるように形作られているか、否か」というまったく別の具体的な意味が浮かび上がりました。そしてそのような劇の外側からの視点に導くものが ABCDEF| fedcba構成でした。このように振り返って見ると『ハムレット』もまた「アナモルフォーズの演劇」なのだということができるでしょう。

 今回は『ハムレット』のABCDEF| fedcba構成とその中心の鏡がどうやらアナモルフォーズの影響を受けたものであるのではないかと見てきました。次回はこれらをもう少し掘り下げていきたいと思います。

 

*1:蒲池美鶴 『シェイクスピアアナモルフォーズ』 研究社 1999年

35.『ハムレット』を「鬼」で解釈する

 このブログは『ハムレット』の新たな解釈を公開するのを目的としているのですが、前々回はてなブログの「今週のお題」にそって書いてみたら、わりと面白いうえ新たな発見もあったりしたので、今回もそれを期待してお題で書いてみようと思います。それで、「今週のお題」は「鬼」です。これは節分の季節だからのお題なのでしょう。

 当然『ハムレット』には鬼もトラ皮パンツも出てこないし、ましてや節分もありません。しかしこれは『ハムレット』ブログです。無理矢理にでも『ハムレット』の鬼を追求するのです。まずウィキペディア の「鬼」を見ますと、鬼が5種類に分類されています。引用します。

 

1.民俗学上の鬼で祖霊や地霊。

2.山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼、例:天狗。

3.仏教系の鬼、邪鬼、夜叉、羅刹

4.人鬼系の鬼、盗賊や凶悪な無用者。

5.怨恨や憤怒によって鬼に変身の変身譚系の鬼。

 

 これらをそれぞれ『ハムレット』にそって考察してみたいと思うのです。

 

 1.民俗学上の鬼で祖霊や地霊 から検討してみましょう。もともと漢字の鬼の意味は死者の魂なのだそうです。それならば『ハムレット』にも鬼が出てくるではないですか。父ハムレットの亡霊です。父ハムレットの霊ですから祖霊であり、デンマーク国王の霊ですから地霊の要素もあるかもしれません。

 父ハムレットの亡霊は開幕後から話題にのぼりすぐに登場します。もともと亡霊の存在に懐疑的だったホレイショーは、自ら亡霊を目の当たりにすることで、それがデンマークに何か異変が起きることの前兆なのではないかと言います。そこに再び亡霊が登場します。歩哨とホレイショーはこの亡霊に国を憂いて現れたのであれば、それは何かと問いかけます。無言の亡霊に歩哨のマーセラスは矛槍でもって打ちかかりますが、亡霊は消えてしまいます。

 亡霊に国の大難の前兆を見て追い回しているのですから、これはアレです。追儺の儀式。節分の豆まきの原型になった儀式です。そうするとホレイショーはその学識でもって亡霊に対処することをもとめられているので、追儺での陰陽師の役割を期待されているようなものです。ホレイショーは超自然的なものは信じていないようですが。この第一幕第一場の季節は冬のようですから季節も節分と一致とみなしましょう。

 

 2.山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼。これは『ハムレット』にはないです。無理矢理こじつけたくてもデンマークには山がないのです。ここは諦めます。

 

 3.仏教系の鬼、邪鬼、夜叉、羅刹。『ハムレット』には仏教は出てきませんが、この仏教系の鬼の役割は地獄での獄卒で、そこでの死者の魂を監督するものとすると、これはキリスト教では地獄での悪魔の役割と重なるでしょう。

 『ハムレット』で最初に登場する死者は父ハムレットですが、この方は地獄で悪魔に責められてはいません。死んだ父ハムレットのいるのは地獄ではなく煉獄です。煉獄で悪魔に責め苛まれているのかというとそうではありません。煉獄には悪魔がいるのではなく、そこでは浄めの火が燃えているのです。

 

亡霊 わたしはお前の父親の亡霊だ。

裁きの結果相当の期間夜はこの世をさまよい歩き、

昼は食を断って浄火の中に籠められ、

生前犯した罪業のかずかずが焼かれ

浄められるのを待つ身なのだ。*1

 

 このように煉獄には火が燃えているだけで、悪魔とか鬼に類するものはいないようです。そういった鬼のような存在は地獄のほうで煉獄にはいないようです。それではこの亡霊は地獄と悪魔とは無関係かというと、そうではなく、ややこしい問題がそこにはあるのです。

 それというのも、煉獄というのはカトリック教会の教義のもので、プロテスタントではその存在が否定されているからです。カトリックでは天国に召されるにはまだまだだけれども、地獄行きとするほどの罪を犯していたわけでもない魂たちの行き場、あるいは苦行の場として煉獄があったわけで、天国と煉獄に行った魂たちは、この世に亡霊としてちょっと顔を出すことが許されていたようです。地獄行きの魂はずっとそこです。亡霊として現れることはありません。

 これに対して、プロテスタントでは死者の魂の行く先は、天国か地獄のどっちかで容赦ありません。さらにそこからこの世に戻ってくるということはできません。そうすると、一つの疑問が浮かび上がります。時々、この世をうろついている亡霊はなんなのか?プロテスタントではこういった亡霊はみんな人間をかどわかすために悪魔が姿を変えたものと見なしているのです。ハムレットはこの前までウィッテンベルク大学で学んでいたのですから、プロテスタントの教育を受けているわけです。亡霊の言葉に対して疑いが生じます。

 

ハムレット なにぶんあの亡霊は

悪魔かもしれない、悪魔は相手次第で気に入る姿を

装うことができる。そうか、ことによったら

こっちの神経衰弱、憂鬱症につけ込んだか、

悪魔はこうした弱みを得意になって攻め立てるというから、

さてはおれを誑かし地獄に堕とす魂胆か、

 

 父親の亡霊は身をもって煉獄を体験しているのですが、息子の方は煉獄には否定的、世代間で宗教的意見の相違がありそうです。

 

 4.人鬼系の鬼、盗賊や凶悪な無用者。これは『ハムレット』においてはフォーティンブラスが辺境の無法者たちを集めてデンマークから領土を奪い返そうと画策しているという逸話が思い浮かびます。

 

ホレイショー さて、ここに彼の忘れ形見の

フォーティンブラスがいる。血気にはやる世間知らずの

若者で、ノルウェーの辺境のここかしこ、

浮浪の無法者を手当たり次第抱え込んでいる、

 

 フォーティンブラスは第五幕第二場に登場するのですが、そこでは理性的な印象です。第一幕の段階ではこのようにヤバい奴という印象で語られています。 

 

 5.怨恨や憤怒によって鬼に変身の変身譚系の鬼。『ハムレット』の中ではさすがに鬼に変身してしまう人はいませんが、憤怒の形相でレアティーズがクローディアスに迫る場面が第四幕第五場にあります。

 レアティーズはもともと青春を謳歌するような多血質の気質だったのですが、父親のポローニアスが不審な亡くなり方をしたため、怒りに満ちた胆汁質となってしまっています。

symmetricalhamlet.hatenablog.com

まあ、この気質の変容を鬼に変身したようなものと言ってしまうこともできるでしょう。

 

 こうやって見ると『ハムレット』はなかなか鬼に満ちているではないかと思われます。さらにウィキペディアの「鬼」の語源の項目には以下のように書かれています。

 

「おに」の語は「おぬ(隠)」が転じたもので、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものであることを意味する、との一説が古くからある 。

 

 なるほど、「鬼」とは「おぬ(隠)」だったのか。ここから思い出されるのは「オカルト(occult)」という言葉です。現代では非科学的である相手を罵倒する時に使われたりする言葉となっていますが、もともとは「隠されたもの」という意味で、そこから超自然的な事物をさすようになりました。つまり「鬼」「おぬ(隠)」と同じ意味をたどっているようです。

 アグリッパ・フォン・ネテスハイムの「オカルト哲学」は「隠秘哲学」と呼ばれることもありますが、「おぬ哲学」あるいは「鬼哲学」でもいいのかも。たしかに「オカルト哲学」の第三巻には西洋の鬼である悪魔たちについて3章にわたって書かれています。

occultlibrary.wiki.fc2.com

 

 このブログでは『ハムレット』を対称構成で読み解き、それによってTo be,or not to beというハムレットの台詞の新たな解釈をしてきました。それは、To be,or not to be とは見えるように演出されているか、そうでないか、という解釈です。To be が見えるように演出されたもの、Not to beが見えるようには演出されていないものです。そしてこの見えるようには演出されていないものが『ハムレット』においてはとても重要であるという事をこれまで書いてきました。

 具体的には、閉幕後のホレイショーの語りは見えるように演出されていませんのでNot to beです。このNot to beである閉幕後のホレイショーの語りが見えるように演出されたものが『ハムレット』劇そのものだと解釈します。

symmetricalhamlet.hatenablog.com

 何が言いたいかというと、Not to beとは「おぬ(隠)」つまり鬼ではないか?閉幕後のホレイショーの語りが、化けて出てきたのが『ハムレット』劇です。こんなことを考えると『ハムレット』はまったく「鬼」の戯曲なのではないかと思えてきました。

 

*1:ハムレット』の引用は、大場建治訳、注解 シェイクスピア選集8 ハムレット 研究社 2004年から