ハムレットのシンメトリー

Hamlet's Questions and One Man's Answers

21.弔いと結婚、記憶と思い

 『ハムレット』のシンメトリー構成の続きですが、ここまではまだ劇中劇の対称ペアがハムレットのイギリスへの渡航であることが明らかになっただけです。これを対称ペアの表に書き加えてみましょう。まだ半分の対称ペアが空白ですが、今回は第一幕第二場の王と王妃の不安な結婚式と、第五幕第一場のオフィーリアの不安な葬式の対称関係について考察したいと思います。

 

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 この王と王妃の不安な結婚式とオフィーリアの不安な葬式は、研究社の『ハムレット研究』で紹介されているキース・ブラウンのABCDEF/FEDCBA symmetries の中にもあるものです。不安な結婚式というのは、先王が亡くなってまだ間もない時にされたためです。そして不安な葬式の方は、亡くなったオフィーリアに自殺の疑いがあるためです。それぞれの場面をみてみましょう。

 第一幕第二場はファンファーレが鳴り響き、その後、王であるクローディアスの演説が始まります。それは先王が亡くなり、その王妃をクローディアスがめとるに至った経緯から始まり、領土の返還を求めている息子フォーティンブラスに言及し、その企てを阻止するためにノルウェー国王に親書を送るためコーニーリアス、ヴォルティマンドを使者に命じます。その後、フランスから一時帰国していたレアティーズが王にフランスに戻る許可を求め、王は応じます。それと対称的に陰鬱な様子のハムレットに王はその様子を咎めます。

「ねえハムレット、お前のその夜の色を脱ぎ捨てて、どうか友人の目でもってデンマーク王を見てくださいな」(第一幕第二場) ドラクロワ 1834年


またハムレットもドイツから帰国していたのですが、ハムレットの方は、ウィテンベルク大学に戻る希望は受け入れられません。その後、ハムレットは長い独白をつぶやいた後、学友であるホレイショーに会い、前日の晩に現れた父ハムレットの亡霊の話しを聞きます。

 オフィーリアの葬式の第五幕第一場は、まず2人の道化の墓掘り人夫が登場し、問答したり歌を歌ったりしながら墓を掘ります。そこにハムレットとホレイショーが登場、ハムレットは墓掘りとの会話の後、死と死者たちに思いを馳せます。そこに王と王妃、レアティーズ、司祭、延臣らが棺とともに登場、オフィーリアの葬儀がされます。その葬儀は自殺の疑いがあったため、簡略なものとされ、オフィーリアの兄であるレアティーズはその事への不満から、司祭を罵り、妹の死の要因となったハムレットへ呪いの言葉を口にし、埋葬されようとする妹の墓穴に飛び込みます。それを見ていたハムレットも激昂し、ハムレットとレアティーズは掴み合いの喧嘩となりますが、王の命令で延臣らによって引き離されます。その後もハムレットは発作的な言葉をレアティーズに投げかけつつ退場します。

オフィーリアの墓穴の中のハムレットとレアティーズ(第五幕第一場)
ドラクロワ 1843年

 第一幕第二場はハムレットが最初に登場する場面でもありますが、特徴的なのは、父親を殺されるか殺された3人の息子たちが、登場あるいは話題にのぼっている事です。そしてこの息子たち、ハムレット、レアティーズ、フォーティンブラスは、それぞれドイツ、フランス、ノルウェーといったデンマークの近隣国に関係しています。

 第五幕第一場は、前半の墓掘り人夫とハムレットの場面と、後半のオフィーリアの葬儀の場面に分けることができるかと思います。そして前半はさらに墓掘り同士の問答と、墓掘りとハムレットの会話の部分に分けることができます。

 どちらかというと、オフィーリアの葬儀それ自体よりも、この墓掘りの場面の方が何か興味が惹かれるものがあります。墓掘りの言葉には多くの情報が含まれているようなのです。例えばハムレット30歳であるという事も、この墓掘りとハムレットの会話のからわかりますし、墓掘りが会話の中で出す問答も何かを示唆しているような雰囲気なのです。

 第一幕第二場の方も結婚式よりも、ハムレット、レアティーズ、フォーティンブラスの対比の方に興味が惹かれるのですが、それでは結婚式と葬式の対称ペアはただ対称として描かれただけなのかというと、そうでもないようです。

 これまで見てきたように『ハムレット』のシンメトリー構成にはTo be, or not to be という言葉によって読み解いていくことができました。そして、To be, or not to beとは、舞台に見えるように表現されているか、それともされていないか、という意味が持たされていました。

 この事を踏まえて、今回、問題としているこの二つの場面について見てみましょう。

 第一幕第二場は、舞台はクローディアスとガートルードの結婚式です。これが舞台に見えるように表現されている、つまり To beであると言えます。同様に、第五幕第一場の舞台で見えるように表現されているのは、オフィーリアの葬式です。それでは、舞台上に見えるようには表現されていないNot to be とは何なのでしょうか?

 少し台詞を細かく見てみましょう。第一幕第二場はクローディアスの次のような台詞で始まります。

 

クローディアス わが最愛の兄たるハムレット崩御の記憶

今なお生々しく、皆みな心を悲しみのうちに

沈め、全王国こぞって嘆きの眉をひとつに

曇らせているのはまことにもっともな次第ではあるが、*1

 

この約2ヶ月前に先王である父ハムレットは亡くなっており、その未亡人であるガートルードとの婚礼が舞台上で執り行われているのですが、最初に先王の記憶について述べているのです。

 この場面に対称となる第五幕第一場のオフィーリアの葬儀の場面ではガートルードが次のように言います。

 

ガートルード いつかはハムレットの妻にと思っていたのに。

あなたの新床を花で飾ってあげるつもりが、こうして

お墓に撒くことになりました。

 

 ここで、ハムレットの母親であるガートルードは、亡くなったオフィーリアの棺を前にして、オフィーリアの生前にはハムレットとの結婚を考えていたと言っているのです。

 これらクローディアスの台詞とガートルードの台詞を比較してみると、ハムレット王の崩御の記憶は王国の共通の記憶であるのに対して、オフィーリアとハムレットの結婚はガートルード個人のはかない思いです。クローディアスがこの公の記憶に対して、現実的な政治的な能力を駆使するのに対して、ガートルードの抱いていた思いは打ち砕かれ、喪に服すより成すすべがありません。

 このように、やはりかなり対称性が意識されているように思われます。結婚式の中に葬儀の記憶があり、葬式の中に結婚が思い描かれています。そしてこれらの葬儀の記憶と結婚への思いは、舞台上に見えるように表現されているものではありません。つまり、この葬儀の記憶と結婚への思いが、舞台上で表現されている結婚式と葬儀に対しての、Not to be であるのです。この事は先に引用したクローディアスの台詞に続く言葉に暗示されています。

 

クローディアス 片方の目に笑みをたたえ、他方の目に涙を宿し、

葬儀には祝歌を、婚儀には挽歌をもってして、

 

これは劇中のクローディアスの意図としては、先王ハムレット崩御からガートルードとの結婚に至ったことについて語った台詞です。その一方で、この言葉によってシェイクスピアは『ハムレット』の王と王妃の結婚式の場と、オフィーリアの葬儀の場のTo be, or not to beの対称性を暗示し、さらにそれを深く読み解くことへ導いているように思われるのです。つまり、葬儀と婚儀は見る事のできる儀式である一方、祝歌*2、挽歌は歌であり、見ることはできません。

 さて、このようにハムレット王の葬儀の記憶と、ガートルードが抱いたハムレット、オフィーリアの結婚の思いが対称的に描かれているわけですが、これによってシェイクスピアは何を表現していたのでしょう。おそらくこの記憶と思い、それ自体がシェイクスピアの関心事だったのではないかと思われるのです。それというのも、生前のオフィーリアの有名な台詞に次のようなものがあるからです。

 

オフィーリア これはね、マンネンロウ、思い出のしるしよ、ねえあなた、忘れないでね。それから三色すみれ、もの思いの花。*3

 

 これは精神を病んでしまったオフィーリアが、歌いながら花を手渡す場面での台詞です。オフィーリアの口からは、いくつもの花の名前が出てきますが、その最初がこのマンネンロウと三色すみれです。そして、それぞれが意味するのは、思い出ともの思いだとオフィーリアは言います。記憶と思いです。このオフィーリアが花を手渡す場面は、葬儀の場面でガートルードがオフィーリアの棺の上に花を撒く場面にも通じているのかもしれません。

 それではなぜ記憶と思いなのでしょう。ここは一度『ハムレット』の内容から少し離れて、当時の学問において記憶や思いがどのようにあつかわれていたかを考えてみましょう。記憶や思いは現代の学問では、心理学や脳科学認知神経科学といった分野が扱うかと思います。エリザベス朝当時は、科学革命が始まった時代ですが、そういった学問はまだ分化してはいませんでした。しかし、脳と記憶や想像、思考といった精神活動との関係は理論づけられていました。そして、そこで重要な役割を担っていたのが精気と呼ばれる概念でした。この精気が脳において記憶や想像などの表象を生み出すとされていたのです。

 

医学者の大部分は、精気を三つに分類している。まず第一に「自然の精気」。この精気の源は肝臓(ダンテの言葉によれば、「われわれの糧が与えられるかの場所」)にあり、そこで浄化と消化がなされる血液の発散によって生み出される。この自然の精気は、肝臓から静脈を通じて全身に流れ込み、体の自然な生命力を増進させるのである。第二に、心臓から発せられる「生命の精気」。この精気は動脈を通じて全身に浸透し、体を活気づける。そして第三に、この生命の精気が脳の部屋で浄化されて生まれる「霊魂の精気」。生命の精気は、心臓の左側から動脈を通って脳へと上昇し、脳の三つの小部屋を通り、ここで「想像力と記憶力によってより純化され消化されて、霊魂の精気となる」。

霊魂の精気は、想像力の小部屋では想像力のイメージを実現し、記憶の小部屋では記憶を、また論理に関わる小部屋では理性を生み出すのである。*4

 

ここで述べられていることを簡単に要約すれば、精気と呼ばれている生命力のような存在が、人間の生態内で変容することによって「自然の精気」「生命の精気」といった身体の生命に関わるものと、「霊魂の精気」という精神活動に関わるものとになり、「霊魂の精気」は脳の三つの小部屋で、それぞれ想像、記憶、思考の表象を生み出す、となります。

ここで「脳の三つの小部屋」と呼ばれているものは、現代の医学では脳室と呼ばれているものです。ガレノス以来のルネサンス期の医学では、この脳室において動脈で運ばれた精気は精錬され霊魂の精気となり、そこで想像、記憶、論理的思考といった表象を生み出すとされていました。この「脳の三つの小部屋」はレオナルド・ダ・ヴィンチの素描にも描かれており、ルネサンス期には重要な器官であると見なされていたことがわかります。

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レオナルド・ダ・ヴィンチ 頭部の解剖図

 これらから記憶と思いとは、精気の変容したものである事がわかります。そしてこの精気こそがルネサンスにおいて医学だけでなく、世界観全体の重要な役割を担っていたのです。また、この精気自体が目には見えず、世界や人体の現象によって推測し感じ取られるものだったのです。つまり世界や人体をTo be とするならば、精気はNot to be という事ができます。

 そして、私たちにとって、現代ではほとんど失われたこの精気の概念を把握することが、シェイクスピアの作品、とりわけ『ハムレット』の理解を深めるために必要なものと思われるのです。

 

追記:2021年11月10日12:40 To be, or not to be の台詞との関係をわかりやすくするため、一部内容を書き改めました。

 

*1:ハムレット』の引用は、大場建治訳、注解 シェイクスピア選集8 ハムレット 研究社 2004年から、以下同様

*2:原文ではmirthで笑いさざめき、歓喜の意。大場訳では祝歌として挽歌との対称性が強調されている。

*3:このマンネンロウとは、ローズマリーとして知られているハーブです。ローズマリーは記憶と関わりのある植物で、花言葉はやはり「記憶、思い出」です。実際、アロマテラピーではローズマリー精油は記憶力を高める効果があるとされています。三色すみれは誰もが知っているパンジーです。なんだかすっきりしない表情をした花なので、 これがもの思いの花であるというのは、いくらか想像がつくかと思います。パンジーという名前もフランス語の思考を意味する単語のパンセ pensée が語源です園芸ネタでもう一つ。オフィーリアという品種のバラがあります。戯曲の中、人間界のオフィーリアは薄幸で若くして亡くなり子供もいなかったわけですが、バラのオフィーリアは多くの子孫を残し現代のバラの多くがこのオフィーリアの血を引いています。野の草花をまとっていたオフィーリアはやはり植物世界に生きているのです。

*4:ジョルジョ・アガンベン 岡田温司 訳 『スタンツェ』(2008 ちくま学芸文庫)