ハムレットのシンメトリー

Hamlet's Questions and One Man's Answers

20.自問自答、ここが問題である

 2021731日現在、このブログは、わずかな人たちに読まれているだけで、コメントや質問、反論などはいただいていないのですが、もしかしたら今後、より多くの人たちに読まれることになった場合、これまでの『ハムレット』解釈と方向性が違うため、疑問や反論を抱く方もいるかと思います。そこで、今回は想定される疑問や反論に対しての私の答えを明確にすることによって、このブログで展開している『ハムレット』解釈がどういったものであるかを記したいと思います。全て、自問自答です。

 

Q.1  一つの台詞の意味を深い部分から考えるためには、その台詞の背景、人物の性格などの分析が不可欠です。さもないと、自分の思い付きや主義主張、さらには願望などをその台詞に投影し、作者の意図とはかけ離れたものとなりかねない。この『ハムレットのシンメトリー』は人物の分析などをせずに台詞を作品から取り出して解釈する。これでは根本から間違っているのではないのか?

 

A.1  確かに台詞の解釈には、その人物の性格を考慮しなくてはなりません。とりわけハムレットは、その性格が批評において問題となる人物ですから、台詞の意味を捉えるには、それらの分析が不可欠でしょう。しかしその一方でシェイクスピアは、『ハムレット』の中に一つの台詞が、見方を変えることによって他の意味を暗示するような書き方をしている部分があります。そのような台詞のもっとも重要なものが”To be, or not to be, that is the question.”です。これまで見てきたように、この台詞は演出において「舞台に見えるように(あるいは聞こえるように)表現されているか、そうでないか」という意味が重ねられています。その場合には、ハムレットの性格や背景は、この台詞にシェイクスピアが込めた意味の隠れ蓑になるのです。いや、洋風にいえば、ヴェールとなるのです。このヴェールをはぎ取ることが、まずは必要なのです。そしてその後に、ハムレットの性格やその背景を分析していくことで、シェイクスピアの意図をより深く読み取ることができると思うのです。

 

Q.2  ”To be, or not to be, that is the question.”というハムレットの台詞の解釈は、従来からの「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」と小田島雄志氏の訳に代表される「このままにあっていいのか、あってはいけないのか、それが問題だ」とに分けられるかと思います。この『ハムレットのシンメトリー』ではどちらの解釈を取っているのでしょうか?

 

A.2  これについては、おそらくシェイクスピアは初めに”To be, or not to be, that is the question.”という言葉を『ハムレット』執筆の際に、あるいはまだアイデアの段階で、シェイクスピア自身が独白としてつぶやいたのではないかと思うのです。それはもちろん「舞台に見えるように(または聞こえるように)表現するか、そうでないか、それが問題だ」という意味です。そしてその言葉を『ハムレット』の中に台詞として、私たちに向けた問題としての意味を込めて組み込んだのだと思うのです。そのためにこの台詞は簡単な言葉でできているにもかかわらず、謎めいた雰囲気があるのでしょう。つまり、私はこの台詞はハムレットの独白としては、どちらにも解釈できるのであり、それは観客、あるいは読者、翻訳者に委ねられているのだと思うのです。この多義的で曖昧で謎めいた雰囲気こそ、シェイクスピアがこの台詞に与えた役割なのではないのでしょうか。

 

Q. 3 ハムレット』には多くの謎がある。「なぜハムレットは復讐を遅らせたのか?」や「叔父を簡単に殺せた場面でなぜそうしなかったのか?」や「ハムレット30歳という年齢設定は少し奇妙ではないか?」など。このような問題にこの『ハムレットのシンメトリー』では答えることができるのか?

 

A.3 数ある『ハムレット』の中の疑問点のうち、少なくともこの3つに私は明確に答えることができます。しかし順を追って、まずはシンメトリー構成を解いていった後にこれらの問題を取り上げることになりますので、まだこのブログで取り上げるのは先になるでしょう。ただ、これらの問題がルネサンスの世界観に関わっているという事をしめしておきたいと思います。

 

Q.4 シェイクスピア劇の真価は実際の舞台にこそある。優れた演出で体験される舞台芸術や役者の台詞の朗誦、そのパッションにこそシェイクスピアが息づいているのであり、それに比べれば、理屈をこねくり回したような駄文にどのような価値があるというのだろう。

 

A.4 このような意見も当然あり得ると思います。否定もできません。しかし例えば、ボッティチェルリの『春』という絵がありますが、これを例に考えてみましょう。この絵の細密に描かれた草花、三美神とヴィーナスの美しさ、そこに見られる作者の技量、そして何よりもこの絵を前にしたときのその迫力、それこそがこの絵の価値であります。こういった意見は正しいでしょう。一方で、この絵は当時の新プラトン主義者のフィチーノの影響の下、新プラトン主義的な世界観が描かれているという説があります。この事は絵画を前にして受け取る事のできる価値とはまた別の価値です。同じことが『ハムレット』にも言うことができるでしょう。『ハムレット』にも演劇から直接的に受け取られる価値とは別の価値があるのです。確かに『ハムレット』の最高の舞台は、観客にこれ以上はないような感動を与えてくれるでしょう。この上ない感動を与えてくれるその『ハムレット』の中に別の世界が隠されているなどとは到底信じられないかもしれません。しかし、このブログを丁寧に読んでいただければ、その世界観とシェイクスピアの離れ業にさらに驚嘆することができると思うのです。

 

 次回からは、またシンメトリー構造の続きで、第一幕第二場の王と王妃の結婚式と、第五幕第二場のオフィーリアの葬式について考えてみたいと思います。