ハムレットのシンメトリー

Hamlet's Questions and One Man's Answers

17.『ジュリアス・シーザー』キャシアスの台詞について、さらに

  前回は『ハムレット』と「世界劇場」の関係を、シェイクスピアの他の作品をもとに考察しました。そして、そこからシェイクスピアは「この世は舞台、男も女もみな役者だ」といった場合の、その「世界劇場」の観客として、一つには神、そしてもう一つには後世の人々を想定していたのではないか、という事を考えてみました。

 今回は、前回の考察で取り上げた『ジュリアス・シーザー』の中のキャシアスの台詞についてもう少し考えてみたいと思います。なぜこの台詞にこだわるかと言いますと、この台詞のヒネリを利かせた自己言及的な作用が『ハムレット』の閉幕後のホレイショーの語りに通じているのではないかと思われるためです。もう一度、キャシアスの台詞を見てみましょう。

 

キャシアス いかに時代が過ぎようと、われらのこの崇高な場面は、いまだ生まれていない国で、いまだ知られざる言葉によって、繰り返し演じられるであろう。

 

 この台詞が17世紀イギリスのグローブ座で演じられている『ジュリアス・シーザー』の中で語られるとき、その瞬間にこの言葉で予言されていた事が実現するわけです。意味の上で、自分自身をくわえ捉えているウロボロスのような構造であると言えるでしょう。

 一方『ハムレット』では、その劇の終わりでホレイショーがフォーティンブラスに語るというハムレットの話は、閉幕後に設定されているため舞台上には表現されていません。しかし、『ハムレット』劇自体が、そのホレイショーが閉幕後にする語りを、舞台上に表現したものという事ができるのです。

 この閉幕後のホレイショーの語りが『ハムレット』劇であると解釈されることによって、『ハムレット』はウロボロスのように円環した構造となります。

 このように両方ともウロボロスのような構造を持っていることがわかりますが、この2つを比較しやすいように次のような文としますと、その構造がほぼ同じであるということがわかるでしょう。

 

キャシアスのこの台詞は、それ自体が言及している、いまだ知られざる言葉によって、語られている。

 

ハムレット』劇は、その劇の中で言及されている、閉幕後のホレイショーの語りが、見えるように演じられたものである。

 

 よりわかりやすくするために、文節で区切って番号をふってみます。

 

|キャシアスのこの台詞は¹|それ自体が言及している²|いまだ知られざる言葉によって³|語られている⁴|

 

|『ハムレット』劇は¹|その劇の中で言及されている²|閉幕後のホレイショーの語りが³|見えるように演じられたものである⁴|

 

 このようにして見ると「14.イギリスの内の舞台」で表にしたTo beNot to beMeta to be が、キャシアスの台詞の中に原型としてあったということがわかるでしょう。

 

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 おそらくシェイクスピアは『ジュリアス・シーザー』のキャシアスのこの台詞のアイデアを『ハムレット』において作品全体に拡大、発展させたのではないのでしょうか。そうであるなら、シェイクスピアはこのパラドキシカルな構造に強い関心をもって創作していたのでしょう。

 このキャシアスの台詞は、その構造を考えるとき、とても興味深いものですが、強い感動を喚起する点でも興味が惹かれます。私はシェイクスピア自身がこの台詞の感情を自らの世界に抱いたことがあったのではないか、と思うのです。そして、その言葉を『ジュリアス・シーザー』の中でキャシアスの台詞として利用したのではないでしょうか。仮にそうであるならば「われらのこの崇高な場面」とは何であったのでしょう?