18.グローブ座の To be, or not to be
前回は『ジュリアス・シーザー』のキャシアスの台詞の構造と『ハムレット』の構造について、両者に共通するものがある事を指摘しました。そして、キャシアスの台詞の「われらのこの崇高な場面」という言葉が、シェイクスピア自身の実際の経験をもとにしているのではないか、という仮説を立ててみました。キャシアスの台詞の全体はこうでした。
キャシアス いかに時代が過ぎようと、われらのこの崇高な場面は、いまだ生まれていない国で、いまだ知られざる言葉によって、繰り返し演じられるであろう。
この台詞をシェイクスピア自身が、自らの世界に対して発したのであったとしたら、その「われらの崇高な場面」とはいったい何であったのでしょう?
おそらくそれは1599年に完成したグローブ座の姿だったのではないかと思うのです。グローブ座は、そこで多くのシェイクスピア作品が上演された劇場ですが、その前身は、シアター座という名の劇場でした。シアター座は大工であり役者でもあったジェームズ・バーベッジによって1576年に建てられています。このシアター座は当時多く建設された劇場のさきがけとなったもので、平民によって建設、維持されたものでした。それはかなり成功した劇場でしたが、劇場の地主との間で賃貸契約について揉めたために解体せざるを得なくなりました。
しかしこの劇場を熱心に維持しようとする人たちがあり、彼らはテムズ川を渡った別の場所にこのシアター座の解体された資材を使って新たに劇場を建設するといった方法を取ることになります。そしてその新たに完成した劇場がグローブ座でした。
シェイクスピアはジェームズ・バーベッジの息子たちと俳優として友人であり、このシアター座に関するトラブルとグローブ座の建設事業に深く関わっていました。テムズ川を渡って運搬されてくる資材から建設途中のグローブ座を目にしていたに違いありません。そして完成したグローブ座は非常に美しい劇場であったと伝えられています。それを目にした時、シェイクスピアの心中にはこの言葉が響いたのではないかと思うのです。
「いかに時代が過ぎようと、われらのこの崇高な場面は、いまだ生まれていない国で、いまだ知られざる言葉によって、繰り返し演じられるであろう」
そしてそれをグローブ座のこけら落としに上演される『ジュリアス・シーザー』の中に台詞として組み込んだのではないかと想像するのです。
また同時にその壮麗なグローブ座が茅葺き屋根の木造建築であり、永続的なものではありえない事も心得ていたでしょう。実際にこのグローブ座は1613年に『ヘンリー8世』の劇中で鳴らした祝砲から茅葺き屋根に引火し消失しています。
『ハムレット』の第五幕第一場の墓場の場面に流れている無常観、ハムレットのシーザーについて語った台詞はもしかするとこの完成したグローブ座に対してシェイクスピアが抱いたもう一つの感情であったのかもしれません。
ハムレット 帝王シーザー死して土芥と化す、
もって孔を塞ぎ風を遮るをいかんせん。
ああ思いきや、往昔全土を畏怖せしめたる一塊の土*1
ここでハムレットは決して永遠ではありえない人間と死んでしまえば土に解体してしまうその体を瞑想しますが、グローブ座も同様に土に解体せざるを得ない素材で作られていました。
また、このグローブとは地球を意味しているのですが、球体であるもの、天球や頭蓋、眼球を意味することもあり、『ハムレット』においてもハムレットが亡霊からの訴えを記憶にとどめておくことを誓う場面では頭という意味でglobe の語が使われています。そのことからもシェイクスピアがグローブ座について地球としての意味だけでなく、人間の頭、あるいは頭脳の機能である表象作用についても意味づけていたのではないかと思われるのです。
そのような事を思うと、グローブ座で演じられている『ジュリアス・シーザー』と、私たちの頭の中で演じられる『ジュリアス・シーザー』がパラレルなものに感じられます。私たちが『ジュリアス・シーザー』を読む時、そしてグローブ座でそれが演じられているのを想像する時、それらはシェイクスピアにとって「 いまだ生まれていない国で、いまだ知られざる言葉によって」私たちの頭の中globeで演じられるのです。つまり、あのキャシアスの台詞は、それを読む私たち自身について予言し、私たちがそれを読むとき、即座にそれが実現する、とも考えられるわけです。
シェイクスピアがそこまで考えていたかどうかはあやしいかもしれません。しかし、シェイクスピアは、私たちにそこまで妄想できる材料を与えてくれたのは確かです。そして『ハムレット』にもそのような材料がふんだんにあります。
『ハムレット』には「世界劇場」のアイデアが秘められていました。そして、彼が生きている世界を「世界劇場」として、その観客として、神ではなく、後世の人間である私たちを想定していたのかも知れないと、考察しました。そこから、今度は次のような想像をしてみたいと思うのです。
私たちは今、17世紀のイギリスを想像している。そこにあるグローブ座を、そこで演じられている『ハムレット』とその観客たちを見ようとしている。シェイクスピアと彼を取り巻く現実世界を想像し見ようとしている。そこにはシェイクスピアが彼の生きている世界が遠い過去となった世界を想像している。彼の周囲に現実としてある世界、そのイギリスもグローブ座も存在しなくなった世界を。その世界から彼の世界を眺めている私たちに向けて、『ハムレット』を入り組んだ構成で書いている。それが解き明かされることを期待しながら。そして、私たちが『ハムレット』を解き明かす時、時空を超えて彼と目が合うのである。
このように考えると、世界劇場として彼の現実世界が劇である、To be の時、その観客として想定されている私たちは存在していない、Not to be です。そして私たちが存在している、To beである現在、彼の生きていたイギリスもグローブ座も、もはや存在していません。存在しているそれらを私たちには見ることはできません。そのグローブ座については語ることしかできないのです。Not to be として語られるだけです。
さらに、その語られたグローブ座から、現代のグローブ座と名づけられた劇場が建設され、『ハムレット』がそこで演じられていきます。グローブ座建設事業も、繰り返し演じられているのです。このように、ここにおいても劇To be と、語りNot to be とが、繰り返し入れ替わる形になっていくのです。
そして、私たちとシェイクスピアの関係さえも「世界劇場」のもとで、To be or not to be として、あのクエスチョンに取り上げられるのです。