ハムレットのシンメトリー

Hamlet's Questions and One Man's Answers

16.世界劇場とその観客

 前回は『ハムレット』の中に「世界劇場」の理念が含まれているのかもしれないと仮定してみました。そして『ハムレット』に「世界劇場」の理念が組み込まれているのであれば、それによって何が表現されているのかを考えました。今回はさらにこの『ハムレット』における「世界劇場」について想像力を働かせて考えてみたいと思います。

 まず、前提としてシェイクスピアが『ハムレット』に「世界劇場」の理念を組み込んだとした場合、その「世界」とはシェイクスピアが生きている17世紀イギリスの世界であるという事です。そして『ハムレット』においてシェイクスピアが提示している問題はTo be,or not to beです。そこから『ハムレット』における「世界劇場」に関して考える場合にも、このTo be,or not to be、つまり、劇として形作られている部分と形作られていない部分という面から考えていくべきだと思うのです。

 通常の劇には観客があります。前回、並列して考察した劇中劇、『ハムレット』劇、「世界劇場」としてのイギリス*1について、それぞれその観客について考えてみましょう。

 劇中劇ではその観客は、クローディアスやガートルードらであり、『ハムレット』劇ではグローブ座の客席や平土間で劇を見ている観客たちです。そして、現実のイギリスですが、これを演劇と見なすために「世界劇場」の考え方に則るわけですが「世界劇場」の場合、神や天使たちがその劇の観客と見なされることもあります。被造物である世界を外から観ることができるのは造物主である神のみである、ということになるのでしょう。

 さて、これまでに見てきたようにTo beとは劇として創られたものです。そして観客は劇として創られたものではない。劇ではない、つまりNot to beということになります。そこから世界を劇として、神がその観客であるとすると、世界をTo beとして、神をNot to beとして捉えることになります。そこから「世界という劇の観客である神は、あるのではない。」というテーゼを導くことができるでしょう。これは、神はあらゆる被造物の属性を超越しているので、言葉では否定によってしか近づくことができないとする否定神学の考え方といえるでしょう。「世界劇場」はTo be,or not to beという問題を加えることによって否定神学のモデルとなるようです。シェイクスピアはそのようなことも考えたのかもしれません。

 しかし、もしかするとシェイクスピアは、彼が生きている世界を「世界劇場」とした場合の観客として、神ではなく、後世の人間である私たちを想定していたのかも知れません。おそらく「世界劇場」というアイデアに対して、そのような解釈がされたことはこれまでなかったのではないかと思います。しかし『ハムレット』について、その周辺のシェイクスピアの作品から考えた場合、このような考え方に妥当性があるのではないかと思われてくるのです。

 シェイクスピアは『ハムレット』の前に『お気に召すまま』と『ジュリアス・シーザー』を書いています。また、それ以前にはイギリスを舞台とする多くの史劇を書いています。それらの史劇を執筆している間、題材とされる人物と過去の事件を想像力によって見ようとしたに違いありません。つまりそれは過去の歴史的事件を「世界劇場」として見た場合の観客としての立場です。「世界劇場」については、先にも引用したように『お気に召すまま』の中でジェイクイーズの台詞の中にその世界観が表されていることから、その執筆期間にはそれが彼の念頭にあったことがわかります。

 『ジュリアス・シーザー』は1599年頃に完成し、同年におそらくグローブ座のこけら落としとして初演されたようです。『ハムレット』の中にはポローニアスが大学時代に芝居でジュリアスシーザーの役をやった、という場面(3幕第2場)があります。これはおそらく同一の役者による楽屋落ちのようです。他にも亡霊登場の直前にホレイショーの台詞でシーザー殺害の前夜の様子を語る部分(Q2第一幕第一場)があります。このように『ハムレット』とは関係の深い作品ですが、ここで注目したいのは第三幕第一場でシーザーを殺害した後のキャシアスの台詞です。

 

キャシアス いかに時代が過ぎようと、われらのこの崇高な場面は、いまだ生まれていない国で、いまだ知られざる言葉によって、繰り返し演じられるであろう。

 

 劇中のローマ時代に生きるキャシアスを演じる役者は、ローマ時代にはまだ存在しない国のイギリスでローマ人には未知の言葉の英語でこの台詞を語るのです。それによってこの予言的な台詞はそれが語られた瞬間に、劇の外からの視点によって実現することになります。

 さらにこの台詞は、シェイクスピアが生きている17世紀から未来へ向けた台詞でもあります。私たちが『ジュリアス・シーザー』の舞台で日本語に翻訳されたこの台詞を観るとき、この台詞はやはりその瞬間に実現するのです。これはシェイクスピアが明らかに未来に向けた意識を持っていたということがわかります。*2

 以上をまとめると、シェイクスピアは劇作家としての初期に史劇の執筆において、過去の歴史的事件を「世界劇場」として、それを見る観客としての見方を得たのだろうと思われます。そして、そこから逆に自らが生きている世界が遠い過去となった世界から見られていることを想像したに違いありません。それは先に引用した『ジュリアス・シーザー』のキャシアスの台詞にまったく未知の後世の人々からの働きかけが表現されていることからも裏付けることができるでしょう。さらに『お気に召すまま』の中に「世界劇場」の考え方が見られるように、この時期のシェイクスピアには「世界劇場」のアイデアがあったことがうかがえます。

 これらから『ハムレット』に「世界劇場」が組み込まれているのであれば、シェイクスピアはその「世界劇場」の観客として、まだ見ぬ後世の人々を思い描いていたと思われるのです。つまり、シェイクスピアは後世に生きる私たちを観客として意識して、17世紀のイギリスを舞台にその人生と世界を演じていたということができるのではないでしょうか。

 

*1:この3つの劇を、今後、『ハムレット』劇の三幅対と呼ぶこととします

*2:このような、後世の人々が自分の作品を、演じあるいは読まれる事を予測したものは、すでにソネット81番の中にも見られます。

つまり、きみの墓碑とはこの私の高雅な詩だ。

まだ生まれていない人の眼が、いずれは、これを読む。

いまこの世に生きている人たちが死にたえても、

やがて生まれる舌がきみの人柄を語り継ぐ。

ソネット集 シェイクスピア 高松雄一訳 岩波文庫 より