ハムレットのシンメトリー

Hamlet's Questions and One Man's Answers

15.劇場としてのイギリス

 前回は、ハムレットに語られたイギリスが、舞台の外に広がっているという事を示して、閉幕後のホレイショーの語りと対比して考察しました。

 『ハムレット』におけるイギリスと閉幕後のホレイショーの語りは、ともに重要な要素だと思われるのですが、両方ともテキストに明確に書かれている事ではないため、これまで研究される事もなかったのだと思われます。それに対して、劇中劇については構造が分かりやすいですし、テキストに明確に描かれていますので、多くの研究がされてきました。*1

 この事はこれまでに書いてきましたように、劇中劇がTo beであり、閉幕後のホレイショーの語りと『ハムレット』のイギリスがNot to beであるから、Not to beの方は意識されにくかったため、と言いかえることもできるでしょう。

 しかしこの三者、劇中劇、閉幕後のホレイショーの語り、イギリスは関連が深く、並列して考察すべきであると思われるのです。そのために24日に投稿しました「10.語りから演劇へ」の記事に掲載した図に、ハムレットのイギリスへの渡航を加え並べて考えてみましょう。この図では亡霊の語りが劇中劇へ、ホレイショーの語りが『ハムレット』劇に形作られていることを図に示しました。

 

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語りから演劇へ

 これまでにNot to beは語りによる表現であり、To beは見えるように形作られた演劇での表現である、という見方をしたのですが、この図の場合でも上段に書かれたNot to beは語りによる表現である事はこの三つに共通しています。そして、その語りの中にも曖昧さや見えなさ、あるいは不確実、信頼できなさというNot to beの要素があります。

 そして下段のTo beについては、劇『ハムレット』を中心として、劇中劇が『ハムレット』舞台の内部にあり、現実のイギリスは『ハムレット』舞台の外部にあります。それぞれが目に見える形としてある点でTo beという事ができるでしょう。しかし劇中劇と『ハムレット』劇は「演劇である」という大きな共通点があります。そしてこれまで見てきたとおり、「演劇として形作られている」ということが『ハムレット』においてはTo beの意味の一つでした。

 そこで現実のイギリスですが、これは他の二つとは違い通常の意味での演出された演劇であるとはいえないでしょう。しかし、ここで思い出しておきたいのが「世界劇場」の考え方です。「世界劇場」とは、この世界は舞台であり、現実に生きている人間は全て役者で、世界という舞台の上で私たちは私たちという役を演じているという考え方です。

 シェイクスピア作品の中では『お気に召すまま』の「この世は舞台、男も女もみな役者だ。」という台詞の中に「世界劇場」の考え方を見ることができます。『ハムレット』の中には「世界劇場」がそのようにわかりやすく表されているわけではありません。しかし、ここに「世界劇場」を用いることで『ハムレット』の To be,or not to beの三幅対が美しい形で完成するのです。これによって、劇中劇、劇『ハムレット』に並んで現実のイギリスも劇と見なされる事となります。この場合の現実のイギリスとはあくまでも当時の『ハムレット』が演じられているグローブ座を包んで広がるイギリスです。

 さて、このようにグローブ座の外に広がっている現実のイギリスを劇として見ることができるならば、シェイクスピアはそれによって何を表現しようとしていたのでしょうか?亡霊の語りが自らが殺されたことを告発するものであり、ホレイショーの語りはハムレット他多数が殺されたことの経緯です。そしてハムレットの語りにはローゼンクランツとギルデンスターンを処刑に陥れたことが含まれています。どれも殺人に関係しています。もしかしたら、現実のイギリスにも陥れられた処刑が実行されていることの隠された告発なのかもしれません。しかし、どうもあまりしっくりした感じはしないようです。

 この問題についてもう少し面白みのある考え方はないものか、次回は想像力を働かせて考えてみたいと思います。

*1:例えば「ハムレット 劇中劇 pdf」で検索すれば劇中劇についての多くの論文を閲覧することができますが「ハムレット イギリス行き pdf」で検索してもほとんどそれについて書かれたものはないようです。