ハムレットのシンメトリー

Hamlet's Questions and One Man's Answers

7.舞台の上に To be,or not to be

 前回、前々回と父ハムレットの亡霊とハムレットの亡骸の対称性を検討してきましたが、まだ他にも色々と比較できる箇所があり面白いですので、今回も引き続き亡霊と亡骸についてです。

 次に引用するのは第一幕第一場で亡霊を目にしたホレイショーが亡霊に問いかけた言葉です。 

 

 ホレイショー 何者だお前は、真夜中の今の時をわがもの顔に、しかも威風堂々のその姿かたち、それは埋葬されたデンマーク国王陛下がいざご出陣の御とき着せられたものだ。*1

 

 いきなり「何者だお前は」ですから、ひどいですね。おまけにこの後、亡霊が無言で去ろうとすると槍で威嚇までされています。確かに得体のしれぬ怪しい存在にかける言葉ではあります。しかし、得体が知れないとはいっても先王の甲冑姿です。なぜこうまでひどい扱いに描かれているのでしょう?

 それに対して、ハムレットの亡骸の方はとても丁重に扱われています。閉幕*2直前の『ハムレット』の最後の台詞はフォーティンブラスのもので、次のようになっています。

 

フォーティンブラス 隊長四名、ハムレット殿下を武人として壇上に安置せよ、ご存命で王位に即かれたならば、必ずや英邁のお名をほしいままにされたであろうお方だ。死出の御旅に際し、隊の楽を奏し、軍の礼を尽くして、殷々のうちに葬送するが当然の礼である。ご遺骸を担え。死屍累々は戦場にこそ。平時にそぐわぬはこの情景。よし、兵士どもに礼砲を撃たせよ。

 

 ハムレットは生前には特に武人としての功績はなかったといっていいかと思いますが、武人として安置するようにフォーティンブラスは命じ、尊敬の念を投げかけられています。これに対して父ハムレットの亡霊の方は、生前は父フォーティンブラスとの決闘で勝利していますし、ポーランドの奴らを叩きのめしたとか、キリスト教国の隅々まで武勇をもって知られたとかがホレイショーの他の箇所の台詞から分かります。それに自ら甲冑姿で現れているのに、先に見たようにひどい扱いを受けています。

 このように二つの台詞を比較すると、父ハムレットの亡霊とハムレットの亡骸がいかに対称的に描かれているかが分かります。正反対の描き方によって対称性を際立たせられているといっていいかもしれません。

 このように対称性が際立たせられているという事は重要な要素があるためかもしれません。もう一度この「胸壁上に現れた父ハムレットの亡霊」と「壇上に安置されるハムレットの亡骸」を見てみましょう。亡霊の方は『ハムレット』が開幕して間もなく登場します。これに対してハムレットの亡骸の方は、先ほどのフォーティンブラスの台詞をみますと、亡骸を壇上に安置することを命じて終わっています。この台詞の後、閉幕となりますので、壇上に安置されたハムレットの姿は劇の中では表現されていません。

 つまり観客は「胸壁上に現れた父ハムレットの亡霊」を見る事ができますが「壇上に安置されるハムレットの亡骸」の方は見ることができないわけです。つまり、観客の知覚にとって、胸壁上の亡霊は To be であり、壇上のハムレットの亡骸はNot to beということができるのです。演劇的な効果としては、ハムレットの遺骸が壇上に安置されて閉幕した方が強い印象を観客に与えることができるかもしれませんが、Not to beを表現するために、安置された亡骸の像は観客の知覚の外側に追いやられているのです。

 前々回に、To be,or not to be,that is the question.the questionとは、「見方、視点」に関るものなのではないかとしましたが、ここで劇を見ている者の視点に立つことでTo be そしてNot to beにまた別の意味が付け加えられます。

 劇の中では開幕以前と閉幕以後にも時間は流れています。それは『ハムレット』では父ハムレットが父フォーティンブラスを打ち破った瞬間であったり、フォーテインブラスの命令を受けて壇上にハムレット達の遺骸が安置された時です。同様に空間的にも舞台上で表現されていない事もあるわけです。フォーテインブラスが兵を集めて領土奪還を企てているらしい、ということは舞台上の現在に進行している事ですが、空間的には舞台上から離れた場所で起こっている事です。そして、それらは観客には見ることはできませんが、劇の登場人物たちが語ることによって予想することができるわけです。

 シェイクスピアは、通常の舞台上で見えるように形作られたもの、それをTo be であると設定したのではないでしょうか?それに対して、劇の舞台上で開幕と閉幕の間という限られた時間と空間の外側に設定された出来事や人物たちはNot to beです。それら、舞台の彼方と幕の向こう側は、観客の目には見えません。舞台上に見ることのできない存在なのです。

 このように考えると、シェイクスピアにとって To be,or not to beとは舞台上に見えるように形作るか、それとも舞台上には作らずに観客の想像の中にのみ形作るかというきわめて具体的な問題だったといえるでしょう。そしてそのような『ハムレット』の創作はTo beそしてNot to beをひそかに埋め込んでいくような作業だったのでしょう。

 

*1:以下『ハムレット』からの引用は 大場建治訳、注解 シェイクスピア選集8 ハムレット 研究社 2004年 から

*2:シェイクスピアの同時代イギリスの舞台には幕はありませんでしたが、このブログでは一般的な用法の通りに劇が始まる事を開幕、終わる事を閉幕と呼びます。それによって幕という言葉に劇の時間の区切りの意味を持たせています