ハムレットのシンメトリー

Hamlet's Questions and One Man's Answers

54. わたしがこのブログを書く理由 はてなブログお題

 時々、頭をよぎるアイデアやひらめきのようなものがあります。それらは行動に移されれば、この世にそのアイデアを形にすることができます。しかしどんなすばらしいアイデアでも何もしなければ、そのアイデアは今朝見た夢のように消えてしまいます。

 

 私の中でひらめくアイデアは、たいていはそのように消えてなくなってしまっても良いような、それほど価値のないものです。しかし、消え去るに任せてはならないひらめきもあります。私がこのブログに書いているのは、そのようなひらめきがもとになっています。それはシェイクスピアの『ハムレット』の解釈に関してのひらめきです。それらは私の意識の底に沈めてしまってはならないのです。

 

 これが私がこのブログを書いている理由です。

 

 劇作家であり演出家で俳優でもあったシェイクスピアは、数限りないひらめきを得て、それらを戯曲なり舞台の演出によって形にしてきました。ひらめいたアイデアが舞台上に形作られていくのを眺め高揚しながら演出をしたのかもしれません。

 そのシェイクスピアでさえ、そういったひらめきがうつろいやすく、失われやすいものだと感じていたでしょう。そのような失われてしまったひらめきやアイデアは、どこにいってしまったのか、それとももともとなかったのであるから、完全に消えてなくなってしまったのか?心の内にしかなかったそれらは、あると言えるのか、それともそうでないのか?シェイクスピアはこんな事も考えたのかもしれません。

 

 このような心の内にありながら外の世界に形になっていないもの、これを『ハムレットのシンメトリー』では”Not to be “といいます。そして心の内にひらめいたものから外の世界に形作られたものは”To be “です。『ハムレット』のもっとも有名な台詞 ”To be, or not to be, that is the question.”にはこのような意味も埋め込まれているのです。『ハムレット』のストーリーからはそのような事は想像できないかもしれません。しかし『ハムレット』には暗号のようなものがあり、それを読み解くことで”To be, or not to be, that is the question.” の隠された意味が明らかになるのです。この暗号が『ハムレット』のシンメトリーなのです。

 

 この『ハムレット』のシンメトリー構成に気づいていった過程と、それらがどのような意味を持ち解釈されるのか、それを考えていく中で多くのひらめきがありました。その一つ一つに気づく度に気分は高揚しながらも、それらが失われないうちにメモする事を心掛けていました。そのようなひらめきと高揚感によってこのブログ『ハムレットのシンメトリー』は書かれています。読んでくださる人たちがそれらを追体験できれば、私がこのブログを書いた目的を達成したともいえるでしょう。

 

 今回のこの記事で初めて私のブログを読んだ方でシェイクスピアに詳しい人がいたら、おそらくこのブログに対して独善的で妄想をもとにしたもののように感じるかもしれません。

 「『ハムレット』のような超有名な作品の中に暗号を探しだすなんて『ダ・ヴィンチ・コード』ではあるまいに。『ハムレットのシンメトリー』とやらもトンデモと妄想に色づけしたようなものに違いない」

 こんなふうに感じた方にぜひこのブログを初めから読んでほしいのです。なぜならそのような方こそ『ハムレット』に抱いていた常識的な読み方が大きく覆るからです。

 

 さて、5月から中断していたこのブログですが、まだ書きたいこともありますので再開していきたいと思います。なぜ中断していたか?暑かったからです。そう、暑さ、寒さも彼岸までと言います。確かにそれは真実で、今日、924日は過ごしやすい日でした。寒くならないうちに書いていきたいです。

53.邦訳の『ハムレット』と『ハムレットQ1』をページごとに要約し比較する

 前回の投稿からもう3か月以上経ってしまいました。もう暖かくなりましたので、ブログも再開です。 

 前々回からの続きです。前々回は『ハムレット』のQ1F1のそれぞれのテキストから”To be, or not to be,”から始まるハムレットの独白を取り出して比較してみました。

symmetricalhamlet.hatenablog.com

そこからQ120世紀に考えられていたように役者の記憶によって作られた海賊版の粗悪なテキストなどではなく、シェイクスピア自身による『ハムレット』の初期のバージョンだったのではないかと推測しました。また、F1の『ハムレット』がグローブ座で公演されたと考えられるのに対して、Q1は初期バージョンであるのと同時に、地方での巡業公演されたもののテキストではないかとも推測し、その痕跡も指摘しました。

 今回はさらにQ1F1の全体を比較する事によってより深くこのQ1の問題を考えたいと思います。

 Q1の邦訳である光文社古典新訳文庫の『ハムレットQ1』の本文は129ページあります。それに対して、研究社版の『ハムレット』は対訳の英文を含めて352ページです。この2冊のページ数の比は411くらいになります。これを25と見なして光文社古典新訳文庫ハムレットQ1』を2ページずつ、研究社版『ハムレット』を5ページずつ要約*1をします。そうすると大体同じ数の要約ができるです。その要約を表計算ソフトのセルに記入していきます。そのようにすることによって、この二つのバージョンの『ハムレット』がどのように異なっていて、なにが共通しているかわかりやすくなるはずです。

 実際にやってみましょう。まず研究社版の『ハムレット』の7911ページです。歩哨が交替し連れてこられたホレイショーに亡霊の話をしますが、信じてもらえません。しかしそこに実際に亡霊が登場します。これを「歩哨とホレイショーのやりとり。亡霊登場」と要約します。次に1315ページを要約して「マセーラスが警護の理由を問う。ホレイショーが答え、先王とノルウェー王の一騎打ちについて、」とします。これは、次の171921ページの要約の「息子フォーティンブラスが領土を取り戻そうとしているらしい事を語る。亡霊登場、鶏鳴で退場。」と連続しています。

 同様の作業を光文社古典新訳文庫の『ハムレットQ1』でも行います。本文最初の2ページ分1516ページを要約して「番兵が亡霊の話をする」とします。次に1718ページを要約して「亡霊登場、すぐ退場。ノルウェーとの関係、」とし1920ページを「フォーティンブラスの話題、亡霊を問い詰めるが、消える』と要約します。

 このように要約し、表計算ソフトに書き込むと以下のようになります。

 

 

 これを見ると、Q1F1はほとんど同じ内容のようです。しかしそれぞれの本文を確認すると、前回ハムレットの独白の比較で見たように、ここでもF1の方が描写も細かく内容も若干異なる事で長くなっています。冒頭の歩哨の交代の場面を見てみましょう。

まず光文社古典新訳文庫の『ハムレットQ1』から。

 

フランシスコ 止まれ! 誰か。

バーナードー おれだ。

フランシスコ おお、お前か。時間どおり来てくれたな。

バーナードー マセーラスとホレイショに会ったら、見張りの仲間だ、急ぐように言ってくれ。

フランシスコ わかった。誰か来る。止まれ!

 

次に研究社版の『ハムレット

バーナードー たれか!

フランシスコー なに! 誰何はこっちだ。動かずに名を名乗れ。

バーナードー 国王万歳。

フランシスコー バーナードーだな?

バーナードー そうだ。

フランシスコー きっかり時間どおりに来てくれた。

バーナードー 十二時を打ったところだ、戻って休め、フランシスコー。

フランシスコー 交代かたじけない。ひどく寒い、それになんだか気が滅入ってな。

バーナードー 異常は?

フランシスコー 鼠一匹でなかった。

バーナードー そうか。お休み。

途中ホレイショーとマーセラスに会うと思う、

一緒の歩哨だ、急ぐよう言ってくれ。

フランシスコー 足音がする。止まれ! たれか!

 歩哨に立っているフランシスコーにバナードーが交代のため来るのは両方とも同じなのですが、誰何するのはQ1ではそれまで歩哨に立っているフランシスコーであるのに対して、F1では交代にやって来たバナードーになっています。

 どちらがより自然であるかといえば、歩哨に立っているフランシスコーが誰かと問う方が自然でしょう。しかしF1では交代要員としてやって来たバナードーが問いかけています。これはかなり不自然な印象を与えます。歩哨の交代としてやって来たバナードーはそこにフランシスコーが歩哨として立っている事はわかっているはずなのですから。しかしバナードーが問う事でやり取りが少し複雑になっており、この場面の背景にも深みが感じられるようになっています。

 このようにQ1に対して、F1は不自然さがありながらもより深みのあるものとなっている事は、前回とりあげた”To be, or not to be,” から始まるハムレットの独白でも同様でした。おそらくその他の部分も同様なのではないかと思われます。

 このように要約によってそぎ落とされて見えなくなってしまう事象もあるのですが、逆に見えてくるものもあるはずです。それを期待してQ1F1を先に記した手順で最後まで要約したのが次の表です。

 字が小さすぎて読めないと思いますが、左の列がスタンダードなバージョンである研究社版『ハムレット』、右は光文社古典新訳文庫の『ハムレットQ1』のページごとの要約です。

 それぞれ70ほどの行に要約が記入されていますが、同じ行にはほぼ同じ内容が記されています。この事は驚くべきことであると思うのです。『ハムレット』のF1,Q2 Q1とでは明らかに異なっているところがいくつかあるにしろ、それぞれのプロットの全体に対しての長さの比率はほぼ同じなのです。

 この事は、Q1が『ハムレット』の初期バージョンであるという推測を確信に変えるのではないでしょうか。Q1海賊版説では、意地汚い役者の記憶によって再現して出来たものだとされています。それによると、『ハムレット』の出演したある役者が記憶によって再現したため、Q1は短く品位に欠けたものとなったと言われています。

 しかし、完全な『ハムレット』の不完全な記憶からQ1ができたのであるとしたら、先の表で示したようにF1, Q2 とプロットの長さの比率が一致するはずはありません。Q1は他の『ハムレット』テキストの半分ほどの長さです。しかし部分的に大きく失われた箇所があるのではなく、全体的に等しく短く薄まっているのです。記憶による欠損ではこのような事はあり得ないでしょう。

 これはQ1の成立において、シェイクスピア本人が『ハムレット』全体の長さとプロットの比率を重視したためだと思われるのです。比率を重視した上で、Q1 を膨らませていって完全な『ハムレット』を制作したか、完全な『ハムレット』を削り取る事によってQ1 を制作したかです。しかし明らかにQ1 は完成度が低いといえる事と、印象的であったり意味深い台詞の多くがQ1 に欠けている事は、後者である可能性を低くしているでしょう。

 そのような理由でQ1 は『ハムレット』の初期バージョンと考えられるのです。そしてこれを初期バージョンとする事によって、シェイクスピアが『ハムレット』を制作した足跡を追うことができると思うのです。今後、このブログでは、Q1 は『ハムレット』の初期バージョンであるという前提によってシェイクスピアがどのように『ハムレット』を制作していったかを考えていきたいと思います。




*1:研究社版の『ハムレット』は対訳ですので、5ページごとの要約は日本語訳では2.5ページごとになります。しかしそれも煩雑ですので実際には2ページと3ページごとの要約を交互に繰り返していきます。

52. 『ノースマン』と『ハムレット』

 とても寒いです。私の家は冬期間、通常はすき間風が室内をそよいでいますが、ここのところの寒気で突風のある日にはすき間雪すら入ってきてしまうのです。一体いつの時代だと思われるでしょうが、昭和初期の家なので仕方ないと思って諦めます。しかし諦めても寒いものは寒いので、寒さで気分を高めて今回は先日見に行った映画『ノースマン』について書いてみたいと思います。

 

 この『ノースマン』、主人公の名前はアムレートです。あのアムレートです。あのアムレートというのは、サクソ・グラマティクスの『デンマーク人の事績』の中のアムレートの物語のアムレートです。つまり『ハムレット』の元ネタです*1。とは言え、この映画が『ハムレット』の元ネタであるアムレートの物語を映画化したものかというとそうではありません。もともとのアムレートの物語から受け継いでいるのは人物の名前と叔父による父の殺害と復讐くらいです。しかし『ハムレット』と全く無関係というわけでもなく『ハムレット』へのオマージュというような部分も表現されています。このあたりは言われてみないとわからないかもしれませんので、今回はこの映画と『ハムレット』との関係や事前に知っておくと楽しめるような事を少々ネタバレしながら書いてみたいと思います。

 

The Northman (2022)

 9世紀、スカンジナビア地域にある、とある島国。

 若き王子アムレート(オスカー・ノヴァク)は、旅から帰還した父オーヴァンディル王(イーサン・ホーク)とともに、宮廷の道化ヘイミル(ウィレム・デフォー)の立ち会いのもと、成人の儀式を執り行っていた。しかし、儀式の直後、叔父のフィヨルニル(クレス・バング)がオーヴァンディルを殺害し、グートルン王妃(ニコール・キッドマン)を連れ去ってしまう。10歳のアムレートは殺された父の復讐と母の救出を誓い、たった一人、ボートで島を脱出する。

 数年後、怒りに燃えるアムレート(アレクサンダー・スカルスガルド)は、東ヨーロッパ各地で略奪を繰り返す獰猛なヴァイキング戦士の一員となっていた。ある日、スラブ族の預言者ビョーク)と出会い、己の運命と使命を思い出した彼は、フィヨルニルがアイスランドで農場を営んでいることを知る。奴隷に変装して奴隷船に乗り込んだアムレートは、親しくなった白樺の森のオルガ(アニャ・テイラー=ジョイ)の助けを借り、叔父の農場に潜り込むが…

 

 

 このようなあらすじですが、簡単に説明すると、アムレートの物語をベースにしてバイキングの時代の精神世界と習俗が描かれています。このバイキングの精神世界とは北欧神話に基づいたシャーマニズムであり、その習俗とは野蛮さと言い換えてもいいかもしれません。

 北欧神話シャーマニズムに関しては後にして、先に野蛮さについて少し考えてみます。この映画ではアムレートが属するバイキングが村を襲う場面など残酷な場面が出てきます。実際バイキングは国々を荒らし家を焼き払い略奪していたので、周辺の国はこの野蛮な行為をやめてもらいたいとキリスト教を布教し改宗させたという歴史があります。映画の中ではキリスト教は略奪された奴隷の宗教でしかなく、まだバイキングにとっては異教として描かれています。

 この野蛮さは、16世紀後半にサクソ・グラマティクスの『デンマーク人の事績』からアムレートの物語がフランス語に翻訳される際にも感じられたようで、翻訳者のベルフォレは、キリスト教以前のお話しなので勘弁してくださいねと弁明しているほどです。

 このキリスト教以前の野蛮さとは、やはり北欧神話とも関係が深いと思われます。映画の中でアムレートの父オーヴァンディルはオーディンを信仰しています。このオーディンとは北欧神話の神で死と戦いと詩の神です。このオーディンに支配されているのが戦死者の館ヴァルハラです。ヴァルハラは選別された戦死者の集う館でバイキングにとっての天国のようなところですが、毎日戦いにあけくれ死んでも甦りまた翌日には戦いを繰り返すという現代の私たちにとっては地獄のような天国です。でもとりあえずそこではたらふく食べる事はできるようです。そしてこの戦死者を選びヴァルハラに運ぶのが、ヴァルキリーです。このオーディンとヴァルハラ、ヴァルキリーは、この映画を鑑賞する際に知識としてあった方が内容がわかりやすいと思います。

 さて、このように天国で殺し合いを楽しむほどにバイキングは現代の私たちから見れば闘争的で野蛮だったのかもしれません。確かにオーディンは死と戦いの神でしたが、詩の神でもありました。バイキングは文化のない野蛮な略奪者というわけではなかったのです。『ノースマン』の中でも儀式の場面では詩によってやり取りをしているようでした。北欧の詩では頭韻が用いられる事が特徴的であり、北欧神話が歌われる『巫女の予言』でも頭韻が踏まれています。また『ノースマン』でアムレートが身分を隠し自らを「ベオウルフ」と名乗るのですが、ベオウルフとは8世紀ごろの叙事詩の名前でもあり、この叙事詩『ベオウルフ』はやはり頭韻で書かれています。

 Wikipediaによるとオーディンという名は語源的には「狂気、激怒の主」と考えられ、この狂気をシャーマンのトランス状態と考えれば「シャーマンの主」と考えることもできるということです。映画の中でもシャーマニズムとその幻視が表現されており、アムレートの成人のイニシエーションでは父の血に触れることで自らの家系図を幻視する場面があります。家系図というか、でかい木に先祖達が首をつっているという縁起でもない幻視なのですが、これはやはりオーディン世界樹ユグドラシルで首を吊る事でルーン文字の知恵を得たという神話に基づいています。

 この成人のイニシエーションの場面ではアムレートの父オーヴァンディルがアムレートに”Swear”「誓え」と繰り返す場面があります。これは『ハムレット』第一幕第五幕で亡霊が繰り返す台詞と同じで『ハムレット』へのオマージュのようです。またアムレートらが襲った村でビョーク扮するスラブの預言者が”Remember”「思い出せ」と繰り返します。これもやはり『ハムレット』の第一幕第五場で亡霊がハムレットに最後に言う言葉が”Remember”「忘れるな」*2で、この後の台詞でハムレットはこの”Remember”「忘れるな」を繰り返し『ハムレット』の中でも印象的な単語の一つとなっています。そのためこのスラブの預言者の”Remember”も『ハムレット』が意識されているのは明らかです。

 また、成人のイニシエーションには道化のヘイミルが立ち会ったのですが、後にアムレートはアイスランドでこのヘイミルの断首された頭と再会します。これも『ハムレット』からのものです。第五幕第一場の墓場の場面で、ハムレットが幼い頃に仲の良かった道化ヨリックの頭蓋骨に語りかける場面のオマージュです*3。『ハムレット』ではハムレットがヨリックの頭蓋骨に語りかけますが、『ノースマン』ではミイラになってしまったヘイミルの頭がアムレートに語りかけ、剣ドラウグルのありかを教えます。

 この後、アムレートはその剣を守る甲冑姿の亡霊と戦います。この亡霊との戦いは全体のストーリーからは違和感があるように感じられますが、これも『ハムレット』の冒頭で現れる甲冑姿の亡霊を思い起こさせます。このように『ノースマン』の中の『ハムレット』へのオマージュはどれもシャーマニスティック、あるいは幻視的な場面で表現されているようです。

 アムレートは父の復讐のためにアイスランドで牧畜を営んでいるフィヨルニルの農場に奴隷として忍び込んだわけですが、このフィヨルニルはフレイという神を信仰しています。フレイは豊穣の神です。バイキングとして略奪をしていたオーヴァンディルがオーディンを信仰していましたので、それぞれ生業にふさわしい神を信仰していることがわかります。

 アムレートはこの農場に忍び込む際に、白樺の森のオルガという女性と知り合いその協力を得ます。アムレートのパートナーなので、『ハムレット』でいえばオフィーリアでしょうか。しかしアムレートがメランコリーに陥ったりしないようにオルガもオフィーリアのように心を病むことはありません。逆に彼女は敵の心を病ませる能力を持っています。「あなたは敵の骨を砕く、私は敵の心を打ち砕く」これは決戦の前のオルガの台詞です。この台詞のようにアムレートは残虐な方法で護衛を殺し、フィヨルニルの他の部下たちも狂乱におちいります。オルガによって心を打ち砕かれたのです。これは実のところオルガによって料理にもられたベニテングタケ*4によるものなのです。映画のなかでは夜のシーンでベニテングタケが描かれているのでとても分かりにくいのですが、白樺の森のオルガという名前からも彼女がベニテングタケを扱う事がわかります。このキノコは白樺の森で見つかるのです。狂ったオフィーリアはハーブや草花を手渡しますが、オルガは毒キノコをもって敵を狂わせるのです。

 この混乱の中、アムレートは母グートルンのいる屋敷に忍び込み、母を救い出そうとするのですが、ここで母から驚愕の真実を明かされるのです。この時代、やる時は躊躇なくやる、アムレートにはハムレットのような憂鬱さや復讐の遅延などはあり得ませんでした。しかし母から真実、その運命を聞き、そこで初めて”To be, or not to be,”のような葛藤を感じたのではないでしょうか。運命の女神たちノルンによって紡がれた糸から織られた生地にはあまりに残酷な絵柄が織り込まれていたのです。

 次回は前回の続きQ1についての記事です。10月から更新が途絶えていたのは寒さのせいです。

 

*1:ハムレット』と『デンマーク人の事績』アムレートとの関係は以下の記事を参照

symmetricalhamlet.hatenablog.com

*2:この”Remember”については以下の記事を参照

symmetricalhamlet.hatenablog.com

*3:第五幕第一場の墓場の場面については以下の記事を参照

symmetricalhamlet.hatenablog.com

symmetricalhamlet.hatenablog.com

*4:Wikipediaによるとベニテングタケはそれほど強い幻覚作用はないと書かれている一方、シベリアではシャーマニズムで用いられたとの記述もある

51.Q1の”To be, or not to be”

 さて前回からの続きで、『ハムレット』のQ1に関してです。まずは前回のおさらいを簡単に。『ハムレット』にはQ1と呼ばれるテキストがあるのですが、このQ1は通常の『ハムレット』の半分程度の長さしかなく、その内容もあっさりしています。そのためこれは『ハムレット』の舞台に立った役者の記憶によって再構成されたものだという説がとなえられました。また、『ハムレット』の地方巡業のための版であるという説もあります。どちらにしろ、完全な『ハムレット』から短縮されたのがQ1であると考えられています。
 それとは逆にQ1は初期のバージョンでそこからQ2やF1に見られるような完全な『ハムレット』ができたという説もあります。私自身もそのように考えているのですが、今回はQ1の内容を見ていきながらなぜQ1が『ハムレット』の初期のバージョンであると考えられるかを記していきたいと思います。
 このように書くとまるで定説に対して反旗を翻しているかのようですが、実のところQ1初期バージョン説はわりと聞かれ、現代ではそのように考えている学者も多いようです。光文社古典新訳文庫ハムレットQ1』の訳者解説を読みますと、訳者の安西徹雄氏も単なる海賊版でなく初期バージョンであると考えていたようです。*1

 実際、どのように違うのか”To be or not to be,”から始まるハムレットの独白を見てみましょう。下の画像は、Q1, Q2, F1の三つの版でのこの独白部分です。

3つの版のハムレットの"To be,or not to be,"の独白
左からQ1,Q2,F1

 

 一目見てわかるのが、やはりその長さです。Q1の独白は3分の2くらいの長さでしょうか。その内容を詳しく見てみましょう。光文社古典新訳文庫のQ1の独白部分です。

 

 1  生か死か、問題はそれだ。
 2  死ぬ、眠る。それで終わりか?そう、それで終わり。
 3  いや、眠れば、夢を見る。そうか、それがある。
 4  死んで、眠って、目が醒めて、
 5  永遠の裁きの庭に引き出される。
 6  そこからは、一人の旅人も帰ってきた例のない、
 7  まったく未知の境。そこで神のお顔を拝し、
 8  救われた者はほほえみ、呪われた者は、
 9  そうなのだ、これがなければ、
10  誰がこの世の有為転変を忍ぶだろう。
11   (力のある金持ちは嘲り、貧乏人は金持ちを呪う)
12   (やもめは虐げられ、みなしごはひどい目にあう)*2
13  飢えに耐え、暴君の悪逆に耐え、
14  幾千の辛苦に耐えて、
15  この忌まわしい人生の重荷を背負って、
16  汗にまみれ、喘ぎ、呻く者がどこにあろう、
17  ただ短剣を一突きすれば、それで一切が終わるというのに。
18  死後の世界を思うからこそ、
19  心は乱れ、おののき、
20  今のこの世の災厄に耐えるほうが、
21  見も知らぬ国に飛び立つよりは、まだしもと思いとどまってしまうのだ。
22  そう、こうして、この良心という奴が、われわれすべてを臆病者と化してしまう。
23  あ、オフィーリア。祈っているのか。私の罪のことも忘れずに祈ってくれ。*3

 


 これをF1の翻訳である大場建治訳の独白部分と比べてみましょう。

 

 1   存在することの是非、それが問題として突き付けられている。
    どちらが高潔な人間か、狂暴な運命の
    矢玉を心中じっと堪え忍んで生き続けるのと、
    打ち寄せる困難の海に敢然武器を取って
 2  立ち上がって一切の決着をつけるのと。死ぬ、眠る、
    それだけのことだ。それで、眠ることで、心の痛みも、
    肉なる者の宿命であるもろもろの苦しみも、すべてに
    終止符を打つことができるのだとしたら、それこそは望みうる
    最高の大団円ではないか。死ぬ、眠る、
 3  待てよ、眠れば夢を見るかもしれぬ。そうか、そこでつかえるのか。
    人間界のわずらわしい桎梏をきっぱり解き放ったあと
 4  死の眠りの中でどんな夢を見るか、そこでだれしも
    立ち止まってしまうのか。そうでもなければ、だれが
    これほどまでに長びかせることがある、人生という災難を、
10  だれがいつまでも耐え続けることがある、時代の鞭と嘲りを、
11  権力者の不正を、傲慢の徒の無礼を、
 ≀  さげすまれた恋の痛みを、裁判の遅延を、
 ≀  役人どもの尊大な態度を、真に価値ある人がひたすら隠忍
13  自重して下劣な徒輩の足蹴を甘受するのはいったいなぜだ、
16  裸の抜身の一閃で安らぎの総決算が
17  できるというのに、いったいだれが人生の重荷を背負って、
15  うめき汗して旅を続けていく事がある、
18  それもこれもただただ死後への怖れ、その世界はといえば、
 6  旅人の帰らざる彼岸の
    未知の国、だれしもがそこで思い煩い、
20  この世で慣れ親しんだ労苦の忍耐の方を選び取ってしまう、
21  得体の知れぬ他国の苦難の中に飛び込むよりも。
22  こうした思いがわれわれすべてを怯懦に仕立てる、
    決意本来の血の色が物思いの
    蒼白な病いの色に覆われてしまう。
    乾坤一擲の大事業がつい横道にそれて
    行動の名を失ってしまうのも
    つまりはこのためなのだ。あ、待て、
23  あれはオフィーリアか?  ―森の女神、あなたの祈りの中に
    この身の罪の許しも。*4

 

 Q1の行の冒頭に行数をふりました*5。F1の翻訳文につけた数字はQ1で意味の上で対応する行です*6。このようにQ1とF1では大体同じような事を言っているようですが、Q1の方がなんだかわかりやすいように感じられます。なぜそのように感じられるのか、細かく見ていってみたいと思います*7
 まず、Q1の内容を要約すれば「この世の苦しみに耐えて生きるよりも、死の眠りの方が安らかではないのか?しかし死後には裁きがある、生きている者がまだ誰も体験した事のない死後の裁きへの希望から*8、人は死の眠りではなく、この世の苦しみに耐えて生きる事を選ぶのだ」というような事かと思います。
 Q1の独白は23行ですが、F1の中に意味の上でほぼ対応する行を見る事ができます。しかし対応が見られない行が2つだけあります。5行目の「永遠の裁きの庭に引き出される。」と8行目の「救われた者はほほえみ、呪われた者は」です。これらはQ1にだけある表現です。F1にはこの死後の裁きに関しては表現はなく、表現されているのは死後が生者にとって全く未知で恐るべきだという事です。 

 これとは逆にF1にしかないものもあります。その一つがF1の2行目から5行目にかけてです。

 

     どちらが高潔な人間か、狂暴な運命
     の矢玉を心中じっと堪え忍んで生き続けるのと、
     打ち寄せる困難の海に敢然武器を取って
     立ち上がって一切の決着をつけるのと。 

 

 Q1では人生の困難に耐えるか、それとも死の眠りを選ぶかでしたが、F1のこの箇所では困難に耐えるか、それとも武器を取って困難に立ち向かうかという選択肢が描かれています。ここには自殺を連想させる表現ではありません。しかしこの後、F1の独白の中ほどには「裸の抜身の一閃で安らぎの総決算ができるというのに、いったいだれが人生の重荷を背負って、うめき汗して旅を続けていく事がある」とあり、自殺という選択肢が描かれています。

このようにこの独白の中には、

a. 人生の困難に耐える

b. 困難に武器を取って立ち向かう、

c. 短剣の一突きで自殺

これらの3つの選択肢があるようです。しかし、b.とc.が別々にa.とともに並べられ二者択一の選択肢の一つとなっているのです。さらに冒頭の”To be, or not to be,”が二者択一の表現でもあるので、ここに3つの人生の選択肢があるようには見えにくいのです。そのためこの独白全体がわかりにくくなっているのです。
 3つの選択肢がこのように描かれていることで”To be, or not to be,”の解釈に混乱が生じるのです。後藤武士『ハムレット研究』によると、この”To be, or not to be,”の解釈には大きく分けて以下の5つの説があると言います。

 (1) 自殺を考えているという説
 (2) これから果たすべき自己の任務について考えているという説
 (3) 自分に関してではなく、一般論としての語りであるという説
 (4) 意味がよくわからぬという説
 (5) 折衷または綜合説

 
 これらの説の中で(1)(2)はもっとも主要な2つの説です。これらに関しては先に考察した3つの選択肢がこれらの説の根底にあることがわかるでしょう。ここで着目したいのは(4)の意味がよくわからぬという説です。

 

L.C.Knights も「Hamlet の心中にあるもろもろの想念の中に、王に対する敵対行動、自殺、それと死後の生の性質についてのものがあることは明らかであるが、その推移が明瞭でない。そこで正確なパラフレイズをしようとするとたちまち困難にぶつかる」と1つのアイディアと他のアイディアとの論理的連鎖が曖昧であることを指摘している。*9

 意味がよくわからぬという説の解説にこのように書かれていますが、私もこの意見が正直なところだと思うのです。ここであらためてQ1の独白部分を読むとすっきりして首尾一貫しているかがわかるでしょう。
 先にも記しましたが、Q1の独白の23行のほとんどがF1 の独白の中に対応する行を見つけることができます。これらの事からQ1が初期のバージョンでそれが改訂されたものがQ2、F1であるのだと思われるのです。つまりQ1の独白を分解し改訂して膨らませ、新たな内容をさらに付け加え配置したのがF1の独白であると思うのです。その結果、もともと首尾一貫していたQ1の内容から、F1では「1つのアイディアと他のアイディアとの論理的連鎖が曖昧」なものとなってしまったのです。
 Q1にはなくF1に付け加えられた箇所がもう一つあります。最後のオフィーリアに気づく前の部分です。

 

     決意本来の血の色が物思いの
     蒼白な病いの色に覆われてしまう。
     乾坤一擲の大事業がつい横道にそれて
     行動の名を失ってしまうのも
     つまりはこのためなのだ。

 

 これを読むと、ここには憂鬱質の性質が表現されていることがわかります。死後の世界がいかなるものかという答えの出ない超地上的な問題に悩まされ現実の行動に移せないといったまさに黒胆汁質の典型です。つまりF1では憂鬱質の性質の表現が付け加えられているのです。
 これらのQ1にはなくF1に付け加えられている箇所によってこの独白は、全体の意味が分かりにくくなりながらも、ハムレットの性格がより強く表現されたと言っていいでしょう。
 また、F1ではQ1に対応する部分でも多くの部分の表現が変わっています。原文を見てすぐに気づくのが、もっとも有名な最初の台詞”To be, or not to be, that is the question.”がQ1では”To be, or not to be, Ay there’s the point.”であることです。「生きるか、死ぬか、それが問題だ」ではなく「生きるか、死ぬか、あぁそこに核心がある」といったような意味となるでしょう。
 さらに独白の中ほどにこの世の苦難を具体的に述べている箇所がありますが、Q1、F1とでは雰囲気が異なります。それぞれを見てみましょう。まずはQ1です。11行目から16行目です。

 

     (力のある金持ちは嘲り、貧乏人は金持ちを呪う)
     (やもめは虐げられ、みなしごはひどい目にあう)*10
     飢えに耐え、暴君の悪逆に耐え、
     幾千の辛苦に耐えて、
     この忌まわしい人生の重荷を背負って、
     汗にまみれ、喘ぎ、呻く者がどこにあろう、


 
 F1でこれと対応する箇所と比較してみましょう。

 

     誰がいつまでも耐え続けることがある、時代の鞭と嘲りを、
     権力者の不正を、傲慢の徒の無礼を、
     さげすまれた恋の痛みを、裁判の遅延を、
     役人どもの尊大な態度を、真に価値ある人がひたすら隠忍
     自重して下劣な徒輩の足蹴を甘受するのはいったいなぜだ、

 

 この二つを読み比べると、Q1 の方は貧困にあえぐ民衆を描いているように感じられるのに対して、F1では貧困などではなく人間関係の苦難が表現されているようです。これらから観客としてQ1では地方の民衆が、F1では都会の市民が想定されているように思われるのです。F1の『ハムレット』はロンドン郊外のグローブ座で公演されたのは確かですが、Q1のバージョンはやはり地方への巡業公演で使われたのかもしれません。
 このように考えると、Q1では死後の裁きが描かれていたのが、F1では死後の得体の知れない事の不安が強調され、死後の裁きについては描かれていないのも都会の観客を意識したものなのかもしれません。もはやこの時代の都会の生活者には死後の裁きが前提とされるよりも、未知の死後の不安の方が共感を得られたのでしょう。原文を見るとこの事を端的に表す箇所があります。Q1の18行目の原文は”But for a hope of something after death?”(しかし、死後にあるいくらかの希望のために)となっていますが、F1ではこの文の”hope”(希望)が”dread”(恐れ)に変わり”But that the dread of something after death”(しかし、死後にある何か恐るべきもの)となっているのです。

 さて、もともとシンプルだったQ1の独白ですが、それにあれこれ付け加えた結果、”To be, or not to be," の独白は意味が取りにくいものとなってしまったと私は考えるのです。しかし、こういうことはパソコンなどで文を書いていて経験した事のある人は多いのではないでしょうか?最初に書いた文に、あれもこれも付け加えたいと思って、元の文章を切り貼りし順序を入れ替えたりして、良かれと思ってやってみた結果、よくわからない文章になってしまったという事です。『ハムレット』もそのような面があると思うのです。その結果、『ハムレット』は「芸術的には失敗作」とか「上演するには長すぎる」「よくわからんことがいっぱい」とか言われたりするのです。しかし、考えてみれば私たちが考えを巡らせるままにすると支離滅裂となることもありますし、それが思い悩んだ独り言であればなおさらでしょう。ハムレットの独白を論理的に解明しようとする事があまり意味のない事なのかもしれません。ハムレットの独白に違和感がないのはそのためでしょう。それにこのよくわからない謎めいた部分が『ハムレット』の魅力となっているのですから。

 このようにハムレットの独白一つを取ってもQ1が20世紀に考えられていたように劣った海賊版であるとは思えないことがわかるでしょう。Q1にはまだまだ面白い特徴がありますので次回はこのQ1全体を見てみたいと思います。

 

 

 

*1:「私はこれを、そもそも単なる海賊版とは見ていないのだ。実をいうと、シェイクスピアハムレット伝説を劇化する前、すでに彼を主人公にした劇が上演され、しかも大いに評判を呼んでいたことを示す証拠がある。シェイクスピアは作者不詳のこの古い劇(残念ながら本文は現存しない)を全面的に書き換え、新しい『ハムレット』を創りあげたわけだが、『ハムレットQ1』は、この改作の過程の初期段階を表しているのではないか、そして、Q2はさらにその次の段階を、F1は、これにさらに手を加え、実際の上演用に改編した形をしめしているのではないかー 私はそう考えたのである。(光文社古典新訳文庫ハムレットQ1』安西徹雄訳 「訳者解説—『ハムレットQ1』について」より)

*2:この括弧でくくった二行は光文社古典新訳文庫の『ハムレットQ1』では訳されていませんでしたので拙訳で補いました。

*3:安西徹雄訳『ハムレットQ1』光文社古典新訳文庫 2010年

*4:大場建治訳、注解 シェイクスピア選集8 ハムレット 研究社 2004年

*5:行数をふった原文は以下のとおり

 1  To be, or not to be, Ay there's the point,
 2  To Die, to sleep, is that all? Aye all:
 3  No, to sleep, to dream, aye marry there it goes,
 4  For in that dream of death, when we awake,
 5  And borne before an everlasting Judge,
 6  From whence no passenger ever returned,
 7  The undiscovered country, at whose sight
 8  The happy smile, and the accursed damn'd.
 9  But for this, the joyful hope of this,
10 Who'd bear the scorns and flattery of the world,
11 Scorned by the right rich, the rich cursed of the poor?
12 The widow being oppressed, the orphan wrong'd,
13 The taste of hunger, or a tyrants reign,
14 And thousand more calamities besides,
15 To grunt and sweat under this weary life,
16 When that he may his full Quietus make,
17 With a bare bodkin, who would this endure,
18  But for a hope of something after death?
19  Which puzzles the brain, and doth confound the sense,
20  Which makes us rather bear those evils we have,
21  Than fly to others that we know not of.
22  Aye that, O this conscience makes cowards of us all,
23  Lady in thy orizons, be all my sins remembered. 

 

*6:対応するQ1の行数をふった原文は以下のとおり

 

 1  To be, or not to be,that is the question;
    whether 'tis nobler in the mind to suffer
    The slings and arrows of outrageous fortune,
    Or to take arms against a sea of troubles,
 2  And by opposing end them. To die, to sleep,
    No more; and by a sleep to say we end
    The heart-ache and the thousand natural shocks
    That flesh is heir to, 'tis a consummation
    Devoutly to be wished. To die, to sleep;
 3  To sleep, perchance to dream. Ay, there's the rub;
 4  For in that sleep of death what dreams may come
    When we have shuffled off this mortal coil,
    Must give us pause. There's the respect
    That makes calamity of so long life,
10  For who would bear the whips and scorns of time,
11  The oppressor's wrong, the proud man's contumely,
 ≀  The pangs of disprized love, the low's delay,
 ≀  The insolence of office, and the spurns
14  The patient merit of the unworthy takes,
16  When he himself might his quietus make
17  With a bare bodkin? Who would fardels bear,
15  To grunt and sweat under a weary life,
18  But that the dread of something after death,
 7  The undiscovered country, from whose bourn
 6  No traveller returns, puzzles the will
20  And makes us rather bear those ills we have,
21  Than fly to others that we know not of ?
22  Thus conscience does make cowards of us all,
    And thus the native hue of resolution
    Is sicklied o'er with the pale cast of thought,
    And enterprises of great pith and moment
    With this regard their currents turn away,
    And lose the name of action. Soft you now,
23  The fair Ophelia? --- Nymph, in thy orisons
    Be all my sins remembered.

*7:以下の記述でQ1と通常の『ハムレット』の比較をしますが、後者はF1と表現します。このブログではF1の翻訳テキストを主に使っているためです。歴史的にはF1よりもQ2のほうが先行していますので、以下の記述では若干、表現のしかたに違和感がある箇所があるかもしれませんが、了承していただければと思います

*8:安西徹雄訳には表現されていませんが、Q1のこの独白の原文では死後の裁きへ"hope"(希望)という語が9行目と18行目の二カ所に使われています。

*9:藤武士 『ハムレット研究』研究社 1991年 176ページ

*10:この括弧でくくった二行は光文社古典新訳文庫の『ハムレットQ1』では訳されていませんでしたので拙訳で補いました。

50.『ハムレット』Q1は海賊版なのか?

 『ハムレット』にはQ1*1というテキストがあります。第一四つ折版と訳されます。このQ1は「粗悪四つ折版」などと言われたりするのですが、非常に興味深いものなのです。今回はこのQ1に関して一般的な見解とそこにある問題などをまとめてみたいと思います。そして次回にQ1についての私の見解を書きたいと思うのです。

 さて、このQ1光文社古典新訳文庫で『ハムレットQ1』という題で翻訳もされています。この光文社の文庫本を手に取ってみますとすぐに気づくのはその薄さです。それもそのはずで、このQ1Q2の半分程度の長さしかないのです。しかも内容を見ると、通常『ハムレット』として知られているF1Q2と大体のストーリーは変わりないものの、なんだかあっさりしているのです。またハムレットのもっとも有名な台詞である”To be, or not to be, that is the question.”の場所が違っていたり、ポローニアスの役がコロランビスという名前になっていたりします。

 Q11603年に出版されたもので、Q21604年、F1シェイクスピアの死後で1623年の出版ですので、『ハムレット』の出版されたテキストとしてはもっとも初期のものと言えます。しかしこのQ1が再発見されたのは1823年であり、長い間失われたものでした。そのため現代人にとっては最も新しいともいえるかもしれません。現在、このテキストは2冊しか確認されていません。発見された当初は、『ハムレット』の初期のバージョンであると推測されました。内容が後のQ2F1と違っているのは、Q1が改訂された結果がQ2F1なのだと思われたのです。

 しかし20世紀に入ると、その考え方は逆転します。もともとのテキストはQ2F1(この二つのテキストの間にはQ1ほどには大きく異なるところはありません)であり、Q1は短縮されたバージョンなのだと主張されるようになります。なぜ短縮されたのかというと、いくつか説があり、ひとつには『ハムレット』に出演していたある役者が金目当てで記憶によって台本を再構成して、それを出版社に売りつけたためだというものです。つまり海賊版です。記憶にたよったため短くなってしまい、しかも品位に欠けたものとなってしまったのだといわれています。この説によるとその役者はマセーラスを演じた役者であると推測されています。なぜならマセーラスの台詞はQ1でもほとんど変質していないため、その記憶が確かだった役者が容疑者となったわけです。

 もう一つのQ1短縮テキスト説は、劇団の地方巡業用の台本だったのではないかという説です。実際Q1のタイトルページには「ケンブリッジ大学、オックスフォード大学、その他の場所でも」上演されたと書かれています。

ハムレット』Q1タイトルページ

 また、この説の有力な証拠の一つとして、ポローニアス役のコランビスです。先にも記したようにQ1のポローニアス役はコランビスという名前になっています。そして18世紀のドイツ語版の『ハムレット*2があるのですが、このポローニアスはコランブスとなっていて、Q1のコランビスとおそらく同じ由来と考えられるのです。さらにこのコロンビスとコランビスの他にも”To be, or not to be, that is the question.”の場所がQ2F1と違っている点や、イギリスへの渡航が海賊ではなく逆風によって妨げられた事などQ1と共通するところが多いのです。とはいえ、Q2F1、Q1とも違っている部分も多いのです。例えば劇の冒頭に「夜の女王」がでてきたりしますし、オフィーリアは小川に流れてほしいところですが、このドイツ語版では丘から飛び降りての自殺です。これらの異同があるなか、Q1と共通する部分もあるのです。つまりこのドイツ語版『ハムレット』とQ1に共通する祖型があると考えられるのです。そう考えるとQ1は単なる海賊版ではなさそうなのです。

 さて、もう一つのQ1に関しての説は『ハムレット』の初期バージョンであるというものです。これは先に記したように20世紀には否定されたのですが、近年では再びこの説が頭をもたげてきたのです。そして私自身もQ1は『ハムレット』の初期バージョンであると考えています。それはこのブログに記してきた内容をこれまで考えてきた過程で確信しました。そしてこのように仮定すると、『ハムレット』の制作の過程が見えてくるのです。次回にQ1の詳しい内容とともになぜQ1が『ハムレット』の初期のバージョンであり、海賊版などではないと考えられるか記していきたいと思います。

*1:Q1Q2F1といった版型に関しては46.フォリオと『ハムレット』対称構成 - ハムレットのシンメトリーの記事を参照

*2:Der Bestrafte Brudermord oder Prinz Hamlet aus Dännemark” 『罰の当たった兄殺し、あるいはデンマークの王子ハムレット』 これは17世紀初めにドイツを巡業したイギリスの劇団の『ハムレット』がもとになったと考えられている。

0.『ハムレットのシンメトリー』目次、及びこのブログの楽しみ方

 


前回の記事である程度書きためておいたものをブログに掲載することができました。このブログはできれば最初から通して読んでいただきたいのですが、それぞれの記事も長めですし全体像が見えにくいかと思いますので、今回通し番号を0. としてこれまでの記事の目次を作ってみました。

 

はじめに このブログについて - ハムレットのシンメトリー

 

1.”To be, or not to be, that is the question. “ その何が問題か? - ハムレットのシンメトリー

 

2.『ハムレット』のシンメトリー - ハムレットのシンメトリー

 

3.ルネサンスのシンメトリー - ハムレットのシンメトリー

 

4.『ハムレット』の ABCDEF| fedcba 構成 - ハムレットのシンメトリー

 

5.父ハムレットの亡霊と息子ハムレットの亡骸 - ハムレットのシンメトリー

 

6.語られたフォーティンブラス、そして現れたフォーティンブラス - ハムレットのシンメトリー

 

7.舞台の上に To be,or not to be - ハムレットのシンメトリー

 

8.実体のない存在 —語り、亡霊— - ハムレットのシンメトリー

 

9.ハムレットウロボロス - ハムレットのシンメトリー

 

10.語りから演劇へ - ハムレットのシンメトリー

 

11.『ハムレット』の劇外劇 - ハムレットのシンメトリー

 

12.劇中劇とシンメトリーとなるのは - ハムレットのシンメトリー

 

13.舞台の彼方のイギリス - ハムレットのシンメトリー

 

14.イギリスの内の舞台 - ハムレットのシンメトリー

 

15.劇場としてのイギリス - ハムレットのシンメトリー

 

16.世界劇場とその観客 - ハムレットのシンメトリー

 

17.『ジュリアス・シーザー』キャシアスの台詞について、さらに - ハムレットのシンメトリー

 

18.グローブ座の To be, or not to be - ハムレットのシンメトリー

 

19.ここまでの要約 - ハムレットのシンメトリー

 

20.自問自答、ここが問題である - ハムレットのシンメトリー

 

21.弔いと結婚、記憶と思い - ハムレットのシンメトリー

 

22.精気 = プネウマ ⇒ スピリトゥス ⇒ スピリット ≒ 気 - ハムレットのシンメトリー

 

23.父を殺された息子たち - ハムレットのシンメトリー

 

24.特定の体液が過剰な人たち - ハムレットのシンメトリー

 

25.四体液説と気質 - ハムレットのシンメトリー

 

26.ルネサンスの憂鬱質 - ハムレットのシンメトリー

 

27.ハムレットの手紙と対称となるのは - ハムレットのシンメトリー

 

28.歌は精気にどのように作用するか - ハムレットのシンメトリー

 

29. デンマークの悲劇の誕生 - ハムレットのシンメトリー

 

30.『ハムレット』の最も中心にある対称ペア - ハムレットのシンメトリー

 

31.クローディアスの懺悔とガートルードの悔悟 - ハムレットのシンメトリー

 

32.『ハムレット』シンメトリー構成とその中心 - ハムレットのシンメトリー

 

33.『ハムレット』の手帳 - ハムレットのシンメトリー

 

34. 鏡としての『ハムレット』 - ハムレットのシンメトリー

 

35.『ハムレット』を「鬼」で解釈する - ハムレットのシンメトリー

 

36.アナモルフォーズの演劇 - ハムレットのシンメトリー

 

37.三一致の法則、線遠近法とマニエリスム - ハムレットのシンメトリー

 

38.塵の人間の尊厳について - ハムレットのシンメトリー

 

39.参考文献画像 - ハムレットのシンメトリー

 

40.土星の子供としてのハムレット - ハムレットのシンメトリー

 

41.参考文献画像 続き - ハムレットのシンメトリー

 

42.ハムレット父と子の霊 - ハムレットのシンメトリー

 

43.精気から見る『ハムレット』第三幕第三場 - ハムレットのシンメトリー

 

44.「ハムレットはなぜ復讐を遅らせたか」と100年間問われなかったのはなぜか - ハ

ムレットのシンメトリー

 

45.『ハムレット』対称ペアに付箋を貼ってみよう - ハムレットのシンメトリー

 

46.フォリオと『ハムレット』対称構成 - ハムレットのシンメトリー

 

47.アムレートからハムレット - ハムレットのシンメトリー

 

48. ハムレットのサターンリターン - ハムレットのシンメトリー

 

49. ”To be, or not to be, that is the question” その問題とは何だったのか? - ハムレットのシンメトリー

 

1.~4.はこのブログの趣旨と考え方への導入です。

5.~18.は”To be, or not to be, “が関わる『ハムレット』の構造に関してです。長いですが通して読んでもらえれば、いかに『ハムレット』という演劇がクレイジーな構造を持っているかが見えるかと思います。19.はその要約です。

20.はこのブログに関しての質疑応答ですが、全て自作自演です。でも過去にいただいたご意見を再現したものもあります。

21.からは『ハムレット』の中のルネサンスと初期近代の世界観に関わります。精気、四体液説、メランコリー、新プラトン主義、科学革命、機械論、マニエリスム、遠近法、三一致の法則、天動説に地動説、占星術錬金術も少し。面白い時代です。というかこれらを読んでいただければ『ハムレット』おもしれ~って思ってもらえるでしょう。

3. 22. 25. 26. はそういったルネサンスの世界観に関して解説したものです。単独で読んでもらえる内容です。

他に単独で読んで楽しめるものとして、33. 35. があります。両方ともはてなブログのお題で書いたものですが、自分でも予想していなかった発見がありました。

このブログの趣旨でもある『ハムレット』の対称構成の全体像に関しては 2. 3. 4. 32. 45. 46. に書かれています。

自分で気に入っている記事は、9. 22. 40. 44. です。それぞれ何らかの発見があったので、読み返すとそれが思い出されるのです。

今後はまだ書いていないネタもありますので、それらや本の紹介なども書いていきたいと思っています。

 

 

 

49. ”To be, or not to be, that is the question” その問題とは何だったのか?

 

    ウィリアム・シェイクスピア 


 前々回の
47.アムレートからハムレット - ハムレットのシンメトリーの記事では、ニューケンブリッジ版『ハムレット』の序文で述べられている『ハムレット』の題材となったアムレートの物語と『ハムレット』を比較した際の6つの変更点について考えてみました。この6つの変更点は『ハムレット』の隠れた主題を考える際に非常に重要なものと思われます。なぜならアムレートの物語にない事柄はシェイクスピアの独創であり、なぜこれらを付け加える必要があったのか、その答えが『ハムレット』の本質ともいえるからです。

 さらに前々回の記事では、この『ハムレット』における6つの変更点がすべてABCDEF| fedcba構成 に必須の要素である事を見ました。そのことからシェイクスピアはアムレートの物語をその骨組みとして、そのストーリーとは別に表現すべき内容をABCDEF| fedcba構成として肉付けることによって『ハムレット』を執筆したのではないかとしました。

 そうであればABCDEF| fedcba構成によって表現されたものとは何だったのでしょうか?これまでそれぞれの対称ペアの考察を振り返ると、ただ単に対称となっているだけでなく対称ペアの一方がTo be で、もう一方がNot to beとして描かれていました。つまりABCDEF| fedcba構成によって表現されたものとは”To be, or not to be” という “The question” だったということがわかるでしょう。

 ”To be, or not to be, that is the question.”というハムレットの台詞はこのブログの1.”To be, or not to be, that is the question. “ その何が問題か? - ハムレットのシンメトリーでも紹介したようにさまざまに翻訳されてきました。それはこの台詞の解釈がいまだ定まっていない事の表れでもあります。しかしそれは舞台の中のハムレットの台詞としての意味です。それに対して”To be, or not to be, that is the question.”という言葉が舞台の外の観客あるいは読者に向けたものとしても考えられるという事も指摘しました。その場合”The question”とはシェイクスピアから私たちに向けられた問題で、『ハムレット』のテキストが問題文です。

 そして私たちはこれまでABCDEF| fedcba構成の中にTo be そしてNot to beが組み込まれているという事を見てきました。その『ハムレット』という問題文の中に”To be, or not to be”を見つけ出すことができたと言えるでしょう。その事をもってシェイクスピアからの”The question”に答えることができたのでしょうか?そうなのかもしれませんが、これらの対称ペアを見つけ出したことはまだ『ハムレット』という問題文の中から”The question”を見つけ出した段階なのかもしれません。

 そうであるなら、ABCDEF| fedcba構成によって表現された”To be, or not to be”とはいったい何なのか?これまでの考察の中で、この”To be, or not to be”にはいくつかの意味があることがわかりました。それらをここで振り返りながらこの”The question”に対する答えを探ってみたいと思います。

 まず”To be, or not to be”シェイクスピアがある事柄を「舞台上に表現するか、それとも舞台上でなく観客の想像の中に現れるように表現するか」という意味があったのではないかということを7.舞台の上に To be,or not to be - ハムレットのシンメトリーで指摘しました。

  この舞台上に表現されているか、それとも表現されていないかという事で最も重要なものがホレイショーの閉幕後の語りです。『ハムレット』の閉幕直前にホレイショーがこれまでの経緯を語りましょうというのですが、それが語られる前に『ハムレット』は閉幕となります。そのためこの語りはNot to beと言えるのです。しかしこのホレイショーが語ろうとしたことは『ハムレット』全体と言ってもいいのです。つまり舞台で演じられている『ハムレット』は閉幕後のホレイショーの語りを見えるように舞台に表現されたものと言えるのです。舞台上に表現されているつまりTo be です。ホレイショーの語りは見方を変える事によってNot to beでありTo be でもあるのです。

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 このようなある見方で見るとTo be でありながら、別の見方ではそれがNot to beとなるように描かれているものは対称ペアとして他にもありました。そのような対称ペアはA|a E|e の対称ペアです。

 A|a とはAの父ハムレットの亡霊とa ハムレットの亡骸の対称ペアです。このAの父ハムレットの亡霊は、霊という非物質的な存在であるため物質的にはNot to beと言えます。それに対してハムレットの亡骸は死体という物質として存在しているためTo be です。しかし見方を物質から霊に変えますと、父の亡霊はこの世に姿を現しているという意味でTo be であるのに対して、ハムレットの亡骸は霊がこの世から去ってしまったという意味でNot to beということができます。父ハムレットの亡霊とハムレットの亡骸は見方を変えることによって、それぞれTo be でありNot to beでもあるのです。

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 次にE|e を見てみましょう。E劇中劇とeハムレットのイギリスへの渡航です。Eの劇中劇は観客にとって劇の中心にあることから舞台上にTo be と言えます。それに対してe ハムレットのイギリスへの渡航は舞台上に表現されていないためNot to beです。しかし劇中劇は劇の中の劇であるためより実在性の乏しいものということでNot to beであるとも考えられます。グローブ座の観客にとって実在という意味で遠く離れているのです。しかしそれに対してハムレットのイギリスへの渡航は、ロンドンのグローブ座の観客により近づいており、『ハムレット』という劇を観客たちがいる現実のイギリスに近づけているのです。その意味でTo be ということができます。

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 このように見た場合の To be, or not to beは『ハムレット』の台詞としての”To be, or not to be”とは意味が微妙に異なる事に気づきます。ハムレットの台詞としての”To be, or not to be”は主語はハムレット自身で、ハムレット自身の存在の選択に関わっています。「生きるべきか、死ぬべきか」「このままにあっていいのか、いけないのか」のように訳されるように主体の二者択一の意味です。

 しかし上記のようにABCDEF| fedcba構成の見かたとしてTo be, or not to be を考えると、ある存在がTo be として認識されるか、Not to beとして認識されるかとなり、主語は観察される対象となります。これは「ある存在が現れているか、そうでないか」と言いかえる事ができます。このような「ある存在が現れているか、そうでないか」とは何なのでしょう?このようなあり方をする存在とはこのブログで度々話題としてきた精気の事なのではないかと思うのです。

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 精気とはspiritつまり霊でもあります。先にみたようにA|a のペアにおいてspiritTo be, or not to beとして読むことができました。この対称ペアでは死後の精気のあり方が問題となっているのです。 

 精気は死後だけでなく人間が生きている間もその精神活動、身体活動を支えています。精神活動は霊魂の精気によって、身体活動は自然の精気、生命の精気によって活気づけられます。さらに霊魂の精気は脳の3つの小部屋で想像、記憶、思考の表象を生み出します。このうち記憶と思考に関してB|b で表現されていました。これは間接的ではあるのですが精気の人間観に関わっています。

 さらにD|d にはハムレットの手紙とオフィーリアの歌が描かれていましたが、これらは精気の世界観によって読むことによってより深く読むことができました。

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 また、第三幕第三場のハムレットがクローディアスの殺害を見送る場面でも、そのハムレットの真意を知るには精気の世界観をもって読まなければなりませんでした。

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 さらに『ハムレット』の批評に関しても、この精気の世界観が失われていった事が大きく関わっていました。

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 精気はそれ自体は物質的に知覚されるものではありません。しかしそれは世界の現象の背後にあり、人間には活力や精神活動として現れる存在でした。これについて、ジョルジョ・アガンベンは『スタンツェ』 第三章 言葉と表象像 の中で、ダンテの詩の中の「精気」という概念に触れ、この精気(プネウマ)が単に、当時の医学、生理学用語としてだけでなく、宇宙論や心理学、救済論、さらには魔術的な事柄にも関わるものであったことを明らかにしています。

プネウマ論的学説においては、医学から宇宙論、心理学から弁論術、救済論にいたるまで中世文化のあらゆる側面が複雑に絡みあっている。そして、このプネウマ論の相においてこそ、これら中世文化の諸側面は、聳え立つ一個の建築、おそらくは中世末期の思考が築き上げたもっとも荘厳な知の大聖堂へと、調和的に融合することができるのである。ところが、この大聖堂の少なくとも一部が今日もなお地中に埋もれたままであるために、われわれはこれまで、その最も完璧な成果である十三世紀の恋愛詩でさえ、あたかも美術館の展示室でわれわれに謎めいた笑みを投げかける、あの彫像の残骸のようにしか見てはこなかった。*1

 

 アガンベンのこの文の中の「十三世紀の恋愛詩」という言葉を、中世の知を受け取ったルネサンス期の知の成果である『ハムレット』にもそっくり置き換えることができると思うのです。そして、十七世紀というこのような知が廃れ、近代知へと移り変わろうとする分岐点にあって『ハムレット』はルネサンスの知の最後の芸術的な精華と見なすことができるのではないでしょうか。

 

 

*1:ジョルジョ・アガンベン『スタンツェ』岡田温司(訳)〈2008 ちくま学芸文庫185ページ